第4話
霧渠の最奥へ近づくにつれ、壁面の刻印が濃くなる。
空気がさらに重い。マナが濃い。息を吸うと、甘さが喉に絡む。
濃い甘さは、酔いに似ている。酔えば判断が鈍る。
やがて、霧の向こうに石の小さな祠が見えた。
扉はない。祠の奥に、黒い金属が薄く光っている。
鍵の形をしているが、鍵穴に刺すための歯ではなく、握るための“柄”が妙に長い。
それが封鍵なのだと、誰もが直感した。
ガルドが息を飲む。
「……本当にあるのか」
ノアが祠の前へ出た。
神官は膝をつき、祈るように手を重ねた。祠の刻印が微かに光り、空気が震えた。
悠斗の掌の紋が、勝手に熱くなる。共鳴。
境界同士が反応している。
そのとき、祠の奥の闇が“動いた”。
霧の中で影が伸びるのとは違う。
闇そのものが、液体みたいにうねる。
そして、闇の中に赤い点がいくつも灯った。
さっきの水棲獣とは別格だ。
目の数が違う。
息の圧が違う。
悠斗の結界が、びり、と震えた。
膜が薄くなる。削られる。
胸の奥の甘さが、じわ、と奪われる。
黒瀬が喉を鳴らし、低く言った。
「……まだいる。しかも、守ってる」
星野が拳を鳴らした。
「なら、殴るだけだ」
真田が苦い笑みを浮かべた。
「これ、映えないやつだな……いや、映えるか。死ぬけど」
藤堂が息を吸い、吐いた。医療者の顔になっている。
恐怖を押し込め、やるべきことだけを数える顔。
悠斗は、祠と隊列の間に境界を引いた。
線を太くする。膜を重ねる。
守る。守るしかない。
霧の闇から、何かが這い出してくる。
鰐でも狼でもない。
それは、霧そのものが骨格を得たみたいな姿だった。
霧の体に、赤い点が浮かび、体の各所に“裂け目”がある。裂け目は口にも、目にも見える。裂け目の奥が暗い。暗いのに、吸い込む圧だけは確かにある。
――門喰いの小さな影。
悠斗は根拠もなくそう思った。
門の裂け目。吸い込み。境界の歪み。
似ている。似ているから怖い。
ノアが祠の前で、声を張った。
「啓示は言いました! 封鍵を取るとき、霧は牙になる! 牙を恐れるな、境界を信じろ!」
境界を信じろ。
その言葉が、悠斗の胸の奥で硬い音を立てた。
信じる? 何を? 自分の結界を? 神を? この集団を?
答える暇はなかった。
霧の獣が跳んだ。結界にぶつかり、膜が裂けた。裂けたところから冷たい風が吹き込み、悠斗の肺が痙攣した。マナが一気に削られる。視界の端が暗くなる。
「……っ!」
息が詰まる。
倒れたら終わりだ。倒れた瞬間、誰かに踏まれる。誰かの犠牲になる。
――置いていかれる。
久世の言葉が刺さる。
悠斗は歯を食いしばり、膜を“縫った”。
裂けた境界の縁を重ね、縫い合わせるように補修する。
結界は布だ。裂ける。裂けるなら繕う。繕えば、まだ持つ。
黒瀬の雷が霧の獣を撃つ。雷が霧の体を走り、赤点が一つ弾けた。だが獣は止まらない。赤点が多すぎる。
星野が肉薄し、拳で霧の裂け目に突っ込む。拳が闇に飲まれ、星野が呻く。吸われる。拳の先から、マナが奪われる。
黒沢が氷を伸ばし、裂け目を塞ぐ。氷が瞬時に削られ、粉雪のように霧へ溶ける。
真田が幻を張る。霧の獣の周囲に、偽の裂け目がいくつも生まれる。獣の赤点が揺れる。狙いが一瞬だけ散る。
その一瞬に、悠斗の視界がまた澄んだ。盲点。
獣の“認識”が穴を開け、こちらが薄くなる。薄くなると、吸い込みが弱まる。
黒瀬が叫んだ。
「祠を取れ! 誰か、封鍵を!」
ノアが動いた。祠の奥へ手を伸ばす。
その瞬間、霧の獣の裂け目が大きく開いた。吸い込みが増す。
ノアの白衣が引っ張られる。神官の体が祠へ引き寄せられ、同時に獣へ引かれる。
藤堂が叫んだ。
「ノア!」
悠斗は反射的に結界を“楔”にした。
境界を一点に圧縮し、ノアの足元に打ち込む。楔が床と空気を固定し、ノアの体が引きちぎられるのを止める。
楔は強い。強いが、マナ消費が凶悪だ。胸の奥の甘さが、ごっそり減る。息が苦しい。視界の端が黒い。
それでも、ノアは封鍵に触れた。
黒い金属が、淡く光った。
光は派手ではない。むしろ地味だ。
だがその光は、霧渠の刻印と同じリズムで脈打ち、悠斗の掌の紋と共鳴した。
霧の獣が、悲鳴のような音を出した。
霧渠全体が震え、壁の刻印が一瞬だけ明るくなる。
そして――霧の獣の赤点が、いくつか消えた。まるで目が潰れたみたいに。
ノアが封鍵を引き抜く。
その瞬間、霧の圧が一段、上がった。
獣が最後の力で跳ぶ。裂け目が大きく開き、吸い込みが隊列全体を引っ張る。
後方で誰かが叫んだ。
叫びが霧に吸われ、意味にならない。
足音が乱れ、誰かが転ぶ。
転ぶ音が、石に響いた。
悠斗の視界が黒くなる。
マナが限界に近い。
ここで枯れたら倒れる。倒れたら吸われる。吸われたら死ぬ。
盲点が、もう一度発動した。
世界が薄くなる。霧の獣の認識から外れる。吸い込みが、ほんの一瞬だけ緩む。
その一瞬に、黒瀬の雷が裂け目の奥へ突き刺さった。
雷が闇を焼き、闇の中で何かが破裂する。
霧の獣の体が崩れ、霧へ戻った。
静寂。
霧渠の音が戻る。水滴の音。足音。呼吸。
生きている音。
悠斗は膝をつきかけたが、必死に立ち直った。息が苦しい。肺が紙みたいに薄い。胸の奥の甘さが、底を見せている。
藤堂がすぐに駆け寄り、悠斗の肩を支えた。
藤堂が低く言った。
「天城くん、無理しないで。倒れたら終わりだよ」
悠斗は頷いた。声が出ない。
ノアは封鍵を胸に抱え、息を整えていた。神官の顔色も白い。彼もマナを使ったのだろう。啓示を伝えるだけではなく、現場で命を賭ける神官。灰燈界の宗教は、机上の言葉ではない。
黒瀬が隊列を見回し、低く言った。
「……点呼。欠けてないか」
名前が呼ばれる。返事が返る。
だが、ひとつ返事がない。
戸田が顔色を変えた。
「……望月がいない」
望月透。編集者。昨日まで、供物の話を妙に冷静に聞いていた男。
霧の中で転んだのが彼だったのか。
黒瀬が歯を食いしばった。
「戻る。捜索――」
久世の声が、唐突に霧の奥から聞こえた。
久世はいつからここにいたのか。別隊のはずだった。影の魔法が、距離の概念を曖昧にする。
久世が淡々と言った。
「霧渠で捜索は死ぬ。もう決めろ。封鍵を持って帰るか、死体を探すか」
黒瀬が睨む。
「お前……いつからいた」
久世は肩をすくめた。
「最初から。影があるところなら、どこにでもいる」
嘘か本当か分からない。分からないことが怖い。
藤堂が叫んだ。
「人がいなくなってるのに、そんな……!」
久世が藤堂を見る。目が冷たい。冷たいが、嘘はない。
「なら行け。行って死ぬか、戻って生きるか。……門は短くなるぞ。五十が欠ける」
五十が欠ける。門が短くなる。
啓示が撒いた毒が、今ここで効き始める。
人を助けたい気持ちと、帰りたい欲が、同じ喉から出ようとして喧嘩する。
悠斗の胸の中で、境界が引かれた。
助ける側と、切り捨てる側。
その境界を越えたら、もう戻れない気がした。
黒瀬は一瞬だけ目を閉じ、次に目を開いたとき、声が硬くなっていた。
「……戻る。封鍵優先。望月は――」
言葉が詰まる。
詰まった言葉の代わりに、黒瀬の拳が小さく震えた。
秩序の男も、人間だ。
隊列が霧渠を引き返し始める。
霧の中で、誰かが小さく泣いた。
泣き声が霧に吸われ、消えた。
帰り道の途中、霧の壁際で、また空間が揺れた。
供物が落ちた。
今度は、黒い布――外套が一枚。小瓶が一つ。銀貨が少し。
外套は、誰にも触れられないまま、ふわりと悠斗の足元へ滑った。
偶然か。風か。霧の流れか。
だが触れた瞬間、悠斗の掌の紋が熱を帯びた。
体が勝手に理解してしまう。
――これは、俺に結びつく。
誰かがそれを見た。
視線が刺さった。羨望と、疑いと、恐怖。
目立たない外套なのに、目立ってしまった。
新井が息を呑んだ。
戸田の目が細くなる。
真田が何か言いかけて飲み込む。
久世が笑った。笑いは薄い。
久世が小さく言った。
「……神は、選ぶんだな」
その言葉が、霧より冷たく、悠斗の背中を撫でた。
封鍵を手に入れた。
代わりに一人が消えた。
そして供物がまた落ちた。
まるで、何かが帳尻を合わせるみたいに。
リューン市へ戻る門の影が見えたとき、悠斗はようやく、息を深く吐けた。
だが吐いた息は、安堵ではなく、次の恐怖の準備みたいに冷えていた。
街はいつも通り賑やかだった。
いつも通りだからこそ、異様だった。
自分たちだけが違う世界を背負って帰ってきたみたいで。
門番が封鍵を見て、目を見開いた。
「……取ったのか」
黒瀬は短く答えた。
「一つだ。……一人、消えた」
門番は言葉を失い、十字を切った。
祈りは、ここでは日常の呼吸だ。
宿坊へ戻る途中、悠斗の胸の奥で、冷たい甘さがじわじわと戻ってきた。
まだ枯渇はしない。だが、今日削られた分は確実に残る。
そしてもっと確実に残るのは――消えた一人の重さだ。
その夜、宿坊の広間は静かだった。
誰も大声を出さない。
供物の袋も、封鍵も、触れたがらない。触れれば欲が出る。欲が出れば争いが起きる。みんなそれを知った。
黒瀬が封鍵を机に置き、全員を見回した。
「明日、西の白楼へ行く。……霧渠は、あれ以上は無理だ」
久世が壁際で腕を組み、静かに言った。
「白楼は霧より厄介だぞ。あそこは――人が絡む」
黒瀬が目を細めた。
「お前、知ってるのか」
久世は笑った。
「影は、噂も拾う。……人が絡む場所は、死体が増える」
藤堂が唇を噛んだ。
「……もう、これ以上、増やさない」
真田が小さく笑った。笑いの中に、怖さが混じっている。
「増やさないって言って増えるのが、こういう話だろ」
その言葉に誰も反論できなかった。
悠斗は、足元に寄ってきた黒い外套を見下ろした。
外套は地味で、目立たなくて、守りにも隠れにもなる。
そして地味なものほど、人を狂わせることがある。
境界を引く力は、守るためにある。
だが境界は、人を切り捨てる刃にもなる。
霧渠で消えた望月の顔が、霧の向こうにちらつく。
眠りにつく直前、悠斗は思った。
この世界で一番怖いのは、魔物でも門喰いでもない。
――「選ばれる」ことに人間が慣れてしまうことだ。
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