第5話

そして翌朝、白楼へ向かう道で、その“慣れ”が牙を剥く。


夜明け前の宿坊は、香木の匂いが薄く残っていた。

眠りの浅い者たちが行き来したせいで、廊下の板がきしみ、灯りの火が小さく揺れている。

外はまだ暗いのに、遠くの市場からは早起きの商人の声がかすかに届く。

街は「いつも」を続けている。そのいつもが、昨日までの自分の世界と地続きに思えない。


悠斗は、黒い外套を手に取った。布は厚くないのに、妙に軽い。

羽毛でも詰まっているみたいに、肩にかけると体温が逃げない。地味な色。目立たない。

目立たないはずなのに――その外套を羽織った瞬間、周囲の視線が一斉に動いたのが分かった。


広間に降りると、黒瀬がすでに人員を揃えていた。

昨日の霧渠で同行した顔ぶれに加えて、何人かが増えている。

武器の扱いに慣れている者、交渉に長けている者、そして――不穏な匂いを持つ者。


新井優斗がいた。顔色が悪い。眠れていない目。口の端が乾いている。

戸田誠もいる。戸田は軽口が多いのに、今朝は妙に静かだった。

静かな人間の方が怖い、と悠斗は思う。静けさは、決意が固まったときに出る。


ノアが広間の中央に立った。神官の白衣は薄暗い中で浮いて見える。彼は咳払いをひとつして、全員に向けて言った。


「白楼へ向かいます。啓示は、今日のうちに白楼へ至れと告げました」


息を呑む音がいくつか重なった。啓示は、事実を宣告する。

選択肢を与えるのではなく、道を固定する。

固定された道を歩くのは楽だ。だが、固定された道は逃げ道もない。


ノアは続けた。


「白楼の封鍵は、塔の最上階にあります。そこへ至る道は三つ。外階段、内部の螺旋階段、そして……鏡室を通る道」


「鏡室?」


真田が間の抜けた声で反復した。軽く聞こえるが、彼の目は真剣だ。

未知を笑って包むのが彼の癖だ。


ノアは頷く。


「白楼には古い“鏡の間”があります。かつて貴族たちが『遠見』に使ったと記録されています。……だが今は、魔物化した鳥の群れが住み着き、塔を守っている。啓示はそれを『白羽の牙』と呼びました」


白羽の牙。言葉の響きだけで、喉の奥が乾いた。牙は噛む。

白い羽は、柔らかいはずなのに。


ガルドが短く言う。


「白楼の鳥は、羽が刃になる。近づけば切り裂かれる。群れに囲まれたら終わりだ」


黒瀬が頷いた。


「だからこそ、隊列を崩さない。……行くぞ」


広間の空気が一段硬くなった。

決定が下された瞬間、人は「自分の意思」で歩くのをやめる。意思をやめた者は強い。

だが、意思をやめた者は折れたときに脆い。


宿坊の門を出ると、朝の冷気が頬を叩いた。街道へ出る途中、領主の兵が道を塞いでいた。

鎧の擦れる音。槍の穂先の鈍い光。兵の中から、若い騎士が一歩前へ出た。

疲れた顔をしているのに、背筋だけは誇りで伸びている。


「器の方々。封鍵を得たと聞いた。領主より伝言だ。白楼へ向かうなら、我が兵を同行させたい」


黒瀬が即座に返す。


「必要ない。ギルドの案内がいる」


騎士の口元がわずかに歪む。

拒絶を予想していた顔だ。


「必要か否かは、我が領の判断でもある。白楼は我が領の古い施設だ。……封鍵は灰燈界全体の問題だとしても、場所は我が領にある」


言い分は正しい。正しいから厄介だ。

弁護士の早乙女がいれば言葉で捌けただろうが、彼は街に残っている。

ここでは黒瀬の現実主義が舵だ。


黒瀬は少しだけ声を落とした。


「同行は一人だけ。指揮権は渡さない。口を出すなら置いていく」


騎士は一拍だけ迷い、頷いた。


「……了解した。私はラド。領主軍の副隊長だ」


ラドが隊列に加わった瞬間、空気の匂いがさらに政治になる。灰燈界の争いに、地球の五十人が組み込まれていく。誰も望んでいないのに、望まれている。


白楼へ向かう道は、霧渠より開けていた。草原が広がり、遠くに白い石の塔が刺さって見える。白楼は遠目には美しい。雲の下で白が淡く光り、まるで空から降りてきた柱のようだ。だが近づくほど、その白は汚れているのが分かる。鳥の糞。血の痕。風化した亀裂。美しさは、死の上に薄く塗られている。


途中、朽ちた馬車の残骸があった。車輪が折れ、荷台が引き裂かれている。周囲に骨が散っていた。人の骨。骨にまだ布が絡んでいる。布の色は……ギルドの色に似ていた。


ガルドが視線をそらし、吐き捨てるように言った。


「……去年の討伐隊だ。封鍵を狙った。白羽にやられた」


「封鍵を狙ったのは、俺らだけじゃないってことか」


真田が言うと、黒瀬が短く返す。


「当然だ。我らにとっても門喰いは生活を脅かす大敵」


白楼の外周に着いたとき、空が一瞬だけ暗くなった。影が落ちる。見上げると、白い羽の群れが旋回していた。鳥というより、刃の束。翼を打つたび、空気が薄く切れる音がする。


ラドが青い顔で呟く。


「……こんなに増えているのか。昨年より多い」


「増える?」


菊地が反射的に訊く。ラドは頷いた。


「魔物化が進んでいる。鳥が狂っている。……門喰いの影響だと、教会は言う」


門喰い。まだ会っていない。会っていないのに、ここに影が落ちている。影は本体より先に来る。影だけで人は殺せる。


黒瀬が手で合図した。


「外階段は無理だ。上から狙われる。内部へ入る」


白楼の入口は半ば崩れていた。白い石が割れ、蔓が絡みつき、そこに赤黒い染みがこびりついている。門の扉は外れ、内側から引き裂かれたように裂け目が走っている。


悠斗は結界を薄く張った。膜を広げると、空気のざらつきが少しだけ落ち着く。だが白楼の内部は、霧渠とは別の意味で「歪んで」いた。音が反響しすぎる。足音が増幅され、誰がどこを歩いているか分からなくなる。視界はあるのに、距離感が狂う。


階段を上がり始めたとき、最初の羽が落ちてきた。


羽は白い。白いが、縁が黒い。刃物の焼き入れみたいな色。羽が床に刺さり、石を削った。羽一本で石を削る。これが群れになれば、人間は紙だ。


上から、鳥の鳴き声が降ってきた。鳴き声というより、金属を擦る音に近い。羽根が擦れて鳴るのか、それとも喉がそう鳴るのか。音だけで歯が浮く。


ガルドが叫ぶ。


「来るぞ! 羽を見ろ! 羽の軌道を読め!」


黒瀬が声を張る。


「天城、結界で傘を作れ! 真田、視線を逸らせ!」


悠斗は息を吸い、吐き、結界を上へ広げた。膜を天井のように張る。薄いが広い。広いほど衝撃を散らせる。上から落ちる羽が膜に触れ、鈍い音を立てて滑った。滑った羽が床へ刺さる。


真田が幻を張る。階段の上に偽の人影がいくつも生まれる。鳥の目がそちらへ向き、羽が偽影へ落ちる。羽が石を削り、火花が散る。火花が白い石に散り、血の色を思い出させる。


星野が歯を食いしばって笑った。


「くそ、面白ぇ……!」


面白いと笑えるのは強さだ。強さは恐怖を笑いに変える。

だが強さは、いつか折れる。折れたとき、笑いは泣き声になる。


鳥の群れが降りてきた。白い羽の塊が階段の上を埋める。嘴は黒い。目は赤い。魔物化した目。

翼を打つたび、羽が刃になって飛ぶ。羽が飛ぶたび、空気が切れる。


黒瀬の雷が落ちた。白い閃光が鳥の群れを貫き、数羽が焼け落ちる。しかし落ちた数より、後ろから湧く数の方が多い。

黒沢の氷が階段に壁を作る。氷の壁に羽が刺さり、氷が削れて雪になる。

藤堂が後方で叫ぶ。


「切られた人、止血! 動かないで!」


誰かが肩を切られていた。血が白い石に落ち、赤が広がる。

藤堂の治癒の光が傷口を塞ぐ。だが藤堂の顔が一瞬だけ白くなる。

マナの消費が重い。戦闘は治療よりも速く血を奪う。


ラドが槍を振るい、鳥を突き落とした。だが槍の穂先に羽が刺さり、槍が欠ける。

鉄が羽に負ける。

ラドの顔が歪む。


「……羽が、武器を削る……!」


菊地が息を呑む。


「羽がマナを帯びてる。物質を侵食する。……なら、相殺するには――」


菊地の錬成が発動した。彼女の掌の紋が光り、床の石が一瞬だけ“粘る”ように変質する。羽が刺さった瞬間、粘りが羽を絡め取り、羽の刃が鈍る。鈍った羽が折れて落ちる。


黒瀬が叫ぶ。


「いい! 菊地、床を粘らせろ! 天城、傘を維持! 星野、突破口!」


星野が突っ込む。瞬歩。鳥の群れの隙間へ体を滑り込ませ、拳で鳥を叩き落とす。

鳥の体は軽い。だが羽が危険だ。星野の頬が一筋切れ、血が飛ぶ。星野は笑う。


「痛ぇけど、効く!」


真田が仮面を持っていない。まだ供物で落ちていない。

代わりに、彼は目を閉じ、幻を強めた。幻が階段を埋め、鳥の目が一瞬迷う。

迷う一瞬が、命を繋ぐ。


悠斗の結界がきしんだ。膜が薄くなる。上から落ちる羽の圧が増えている。

羽が膜を削り、削られた分だけ、悠斗の胸の奥の甘さが減る。

息が苦しい。視界の端が暗い。


――枯れる。


恐怖が喉を掴む。枯れた瞬間、結界が消える。傘が消えれば、全員が切り刻まれる。

悠斗は必死に呼吸を整えた。息でマナを引き戻す。だが戦闘中の呼吸は浅くなる。浅い呼吸はマナを満たさない。


そのとき、ふっと世界が薄くなった。


鳥の目が、悠斗を見失った。

羽の軌道がわずかに逸れる。

吸い込まれるような圧が軽くなる。


盲点(ブラインド)。

スキルが勝手に穴を開けた。世界の認識の網に、抜け穴が生まれる。

抜け穴の内側では、攻撃が少しだけ鈍る。


黒瀬がその変化を感じ取ったのか、叫んだ。


「今だ! 突っ切れ!」


隊列が階段を駆け上がる。羽が背中を掠め、血が飛ぶ。血が白い石に落ち、足が滑る。滑った者を、黒沢が腕で掴む。救助隊の腕だ。引き上げる力がある。


最上階へ至る手前、扉があった。白い扉。だが扉の中央に、鏡が嵌め込まれている。鏡は曇っている。曇りの奥に、何かが揺れている。水面のように。


ノアが息を整えながら言った。


「これが鏡室です。啓示は、ここを通れと言った」


「通れって……鏡だぞ?」


戸田が笑った。笑いは乾いている。


ガルドが鏡から一歩距離を取る。


「白楼の鏡は、昔から噂がある。見るな、触るな、通るな。……通った者は、戻らないことがある」


「戻らない?」


藤堂が喉を鳴らした。


ノアは、鏡の曇りへ手を伸ばした。躊躇いがない。啓示を受けた者の顔だ。

ノアの指先が鏡に触れた瞬間、鏡が波打った。曇りが溶け、水面になる。鏡の奥に、別の空間が見えた。暗い廊下。壁に灯り。人影。


悠斗の背中がぞくりとした。

鏡の向こうに「行ける」。

行けるということは、戻れないということでもある。


黒瀬が言った。


「順番だ。俺が先に行く。天城、次。結界で出口を確保する」


黒瀬が鏡へ踏み込んだ。水面が揺れ、黒瀬の体が溶けるように消えた。

心臓が一拍遅れる。人が鏡に呑まれる光景を、脳が拒否する。拒否しても現実は続く。


悠斗は息を吸い、鏡へ踏み込んだ。

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