第3話
夜、宿坊へ戻る道すがら、村人が何度も頭を下げた。
「器の方々、神があなたたちを守りますように」
祈りの言葉は優しい。だが祈りは、時に鎖になる。
宿坊に戻ると、供物の話は瞬く間に広がった。
街の冒険者たちが嗅ぎつけ、教会の司祭が確認に来て、ギルドの代表が目を細める。
「これは……本当に降るのか」
ギルド代表は半ば呆れた顔で笑った。
「なら話が変わる。お前らは金を持たずとも、装備を得る可能性がある。……神に選ばれるなら、我々はさらに投資する価値がある」
投資。
値札みたいな目が、さらに冷たくなる。
その晩、広間で黒瀬が言った。
「明日から封鍵探索に向かう。ノアの話では、封鍵は四つ。北の霧渠、西の白楼、東の沈鐘、南の骨庭。……順番は、情報と補給の都合で決める。まず北だ」
「封鍵は、誰が持つ?」
誰かが言った。
空気がまた張った。
持つ者が、主導権を握る。
主導権があれば、帰還の順番を決められる。
決められるということは、選別できるということだ。
黒瀬は言った。
「共有する。保管は複数人で。誰か一人に独占させない」
久世が奥から声を上げた。いつの間に戻ってきたのか分からない。
影みたいに立っている。
「共有ってのは、綺麗事だよ。保管する人間を、誰が決める?」
久世の声は静かだったが、静かだからこそ刺さる。
「信じられる人間がいるのか? この中に」
「お前が言うな」
黒瀬が言った。
「俺は正直だろ」
久世は笑った。
「綺麗事を言わないだけだ」
真田が割って入った。
「まあまあ。とりあえずさ、門喰い倒せば帰れるんだろ? 帰ったら全部終わりじゃん」
「終わらない」
早乙女が静かに言った。広間の片隅で、契約書のような紙束を抱えていた。
「帰った後、あなたの言動は全部“説明”を求められる。……異世界で何をしたか、誰を守り、誰を見捨てたか。法が追いつかなくても、人は裁く」
裁く。
その言葉が、悠斗の胸に小さな棘を刺した。
裁く相手がいるとしたら――誰だ。地球の誰か? それとも神?
そのとき、供物の中にあった銀貨袋が、ふっと消えた。
誰かが取った。
取った者は、音も立てなかった。
広間の空気が一気に濁る。視線が走る。疑いが、匂いになる。
「誰が取った」
黒瀬が低く言った。
誰も答えない。
沈黙は、答えそのものだった。
この集団は、もう「ひとつ」ではない。
まだ門喰いにも会っていないのに、内側で裂け始めている。
悠斗は、自分の掌の紋を見た。
境界。
境界は、外敵だけを分けるものじゃない。
人と人の間にも、境界はできる。
境界は守りにもなるが、断絶にもなる。
そして――その境界を引けるのは、自分かもしれない。
そう思ってしまうことが、何より怖かった。
***
翌朝、ノアが宿坊の門前で待っていた。
神官の目は寝不足で赤い。それでもまっすぐだ。
「行きましょう」
ノアは言った。
「啓示は、日が高くなる前に出よと告げました。……封鍵を集めるほど、門喰いはあなたたちに気づく。だから急ぐ必要がある」
「気づく?」
悠斗が思わず聞き返す。
ノアは頷いた。
「門喰いは、門を喰う。門の匂いを嗅ぐ。封鍵は門の部品です。……あなたたちが封鍵を動かせば、門喰いはそれを感じる」
風が吹いた。
城壁の上で旗が鳴る。
街は朝の匂いに満ちている。市場が開き、人が動き始める。生活の匂い。
生活の匂いの中で、悠斗は思った。
自分たちは、ここで「物語」になり始めている。
誰かの祈りの中で、誰かの投資の中で、誰かの値札の中で。
封鍵探索隊が門を出る。
背中に、街の視線が刺さる。
そしてその視線の中には、昨日まで存在しなかった――妙な熱が混じっていた。
理由は分からない。
分からないまま、悠斗は結界を薄く張った。
境界の膜が空気を少しだけ落ち着かせる。
足取りが、ほんの少しだけ軽くなる。
北へ向かう街道の先、霧が山肌に溜まっていた。
霧渠。
そこに封鍵がある。
そして悠斗はまだ知らない。
霧の中で、最初の「選別」が始まることを。
リューン市の城門を出た瞬間、空気の匂いが変わった。市場の油と焼き肉の匂いが背後に遠ざかり、代わりに土と湿った草の匂いが前から押し寄せる。街道は踏み固められているが、端はすぐにぬかるみ、そこから先は「人の手の外」だと教えてくる。
出発したのは五十人全員ではなかった。
契約の都合と宿坊の規模、それに何より“まとまり”の問題で、黒瀬は参加者を絞った。
戦える者、治療できる者、交渉できる者、地形を読める者。
残りは街で訓練と補給、そして――互いの監視だ。
留守を任せること自体が、もう政治だった。
黒瀬は隊列を作り、前後にギルドの冒険者を配置した。
案内役は、浅黒い肌の中年の男で、名をガルドと言った。
無駄口は叩かないが、危険の匂いには敏い目をしている。
ノアは隊列の真ん中にいた。
神官の白衣は目立つ。
目立つことが盾にもなるし、的にもなる。
教会の護衛が二人付いたが、護衛たちの視線は外敵よりも、召喚者たちの手元をよく見ている。
悠斗は胸の奥の“冷たい甘さ”を意識しながら歩いた。
街を出てしばらくすると、その甘さが妙に澄んでいく。リューン市の中では濁っていたものが、外に出た途端に透明になる。
マナは空気の中にあるのだろう。場所によって濃淡がある。
濃い場所は楽だが、濃すぎれば――魔物化が増える。
街道の先、山肌に霧が溜まっていた。
まるで灰色の布が谷に落ち込み、誰かがそこへ水を注いで膨らませたみたいに。
霧渠。古い水路跡。壁面に石の溝が走り、その溝を辿れば、昔は山の水が街へ流れたのだと分かる。
ガルドが手を止めた。
「ここから先は霧が濃い。音が狂う。距離が狂う。……そして、魔物化した水棲の獣が出る」
黒瀬は頷いた。
「索敵はどうする?」
ガルドは肩をすくめた。
「普通なら、松明と笛だ。だが霧渠は反響がひどい。……神官殿の結界か、あんたらの魔法頼みだな」
その言葉に、視線が悠斗へ寄る。意識してしまうだけで背中が熱くなる。
目立たない方がいい、という久世の言葉が頭の奥で鳴った。
だが今は、目立たないままでは置いていかれる。
境界を引けるのは自分だ、と言い聞かせるしかなかった。
悠斗は掌を握り、息を吸って吐いた。
掌の紋が微かに熱を帯び、空気が薄く張る。
透明な膜。壁ではなく、線。線が「こちら側」を作る。
黒瀬が短く言った。
「天城。薄くでいい。隊列の外周を囲ってくれ」
悠斗は頷いた。結界を広げる。薄い膜を、隊列の周囲に沿わせる。音が少しだけ遠くなる。
霧の湿った匂いが薄くなる。呼吸がしやすい。膜は空気を整理する。世界のざらつきを削る。
藤堂が小さく息を吐いた。
「……これ、助かる」
真田が肩を揺らして笑った。
「俺ら、もう普通の大学サークルじゃねえな」
黒沢が真面目に返す。
「ふざけるなよ。死ぬぞ」
真田は両手を上げて降参のポーズをしたが、目は笑っていなかった。
軽口は恐怖の裏返しだ。恐怖を認めたくないから、冗談で包む。
隊列が霧に呑まれた。
霧渠の内部は、外よりも冷たかった。石壁が湿り、苔が滑る。
足元の石は水で磨かれたように丸く、踏み外せば膝を割る。
視界は数メートル。息の白さが自分の顔の前で揺れ、霧と混ざって消える。
音が、変だった。自分の足音が自分の後ろから聞こえる。
誰かの咳が、すぐ隣で聞こえたかと思うと、遠くから響く。耳が“距離”を失う。
八代が小声で言った。
「……ここ、地形が歪んでる。水路の直線が、体感で曲がる」
菊地が霧の粒を指で掬い、眩しそうに眺めた。
「マナ濃度が高い。霧そのものにマナが混ざってる。……感覚が狂うのは、脳がマナの情報を処理しきれないからかもしれない」
藤堂が眉をひそめた。
「脳が、処理しきれない?」
菊地は淡々と言った。
「生まれて何十年、低マナで生きてきた脳が、いきなり高マナ環境に放り込まれる。……適応できない個体が出ても不思議じゃない」
その言葉が、冷たい刃になって背中を撫でた。
適応できない個体。つまり――死ぬ人間。
隊列の後方で、誰かが舌打ちした。振り向くと、新井優斗という若い男がいた。
昨日、銀貨袋が消えたとき、やけに目が泳いでいた男だ。
二十一歳。風の魔法と、盗みのスキルだと言っていた。
新井が目をそらす。
悠斗は何も言えなかった。疑いの視線は、それ自体が毒だ。
だが毒を飲まないといけないときもある。
霧の中で、突然、悲鳴が上がった。
声の位置が分からない。前か、後ろか。近いのか、遠いのか。
霧が声を飲み込み、吐き出す。
黒瀬が即座に叫んだ。
「止まれ! 隊列維持!」
悠斗は結界を強めた。膜がきしむ。空気が少しだけ硬くなる。
次の瞬間、霧の中から黒い影が飛び出した。
犬――ではない。犬に似ているが、口が裂けている。
裂け目が耳の下まで伸び、牙が多い。目が赤い。
赤い目が霧の中で点になる。点がこちらへ跳ぶ。
結界にぶつかった。鈍い衝撃。膜が揺れる。影が弾かれ、霧に溶ける。
黒沢が氷の鎖を放った。鎖が霧を裂き、何かに絡む。
だが手応えが薄い。霧の中で、絡んだはずの影が滑る。
星野が前に出た。瞬歩。体が風みたいに消え、次の瞬間、霧の中で拳が鳴った。
だが拳は空を打つ。影はどこかへ移動している。
真田が手を振った。幻が広がる。
霧の中に“偽の隊列”が生まれ、影がそちらへ跳ぶ。
影が空を噛む音がした。牙が何かを裂く音。だが裂かれたのは霧だ。
そのとき、隊列の右手から「濡れた」音がした。水が跳ねる音。
悠斗の背中の皮膚が粟立った。霧渠なのに、足元に水はない。なのに水音がする。
ガルドが呻くように言った。
「……来るぞ。水路の獣だ」
霧の粒が一瞬だけ、逆流した。霧が押し戻される。空気が膨らむ。
そして、床の石の継ぎ目から、黒いものが這い出した。
鰐のような体。だが皮膚が半透明で、水の膜が揺れている。霧がその体に吸い込まれ、吐き出される。霧そのものが獣の呼吸になっていた。
悠斗の結界が、ざらりと削れた。
獣が息を吐くたび、膜が薄くなる。マナが奪われる感覚。胸の奥の甘さが、少しずつ削られていく。
藤堂が声を上げた。
「これ、近づいちゃだめ! 吸われる!」
黒瀬が即座に判断した。
「距離を取って削れ! 天城、結界を二重にして圧を分散させろ!」
悠斗は歯を食いしばり、膜を重ねた。境界の膜を二枚、三枚。薄い膜を重ねると、厚い壁よりも柔らかく衝撃を散らせる。だが重ねるほど、自分のマナが減る。息の奥に、微かな苦しさが生まれる。
黒瀬の雷が霧を裂いて走った。白い光が獣の輪郭を一瞬照らす。だが雷は獣の体で滑り、霧の中へ散った。水膜が導体になるのか。雷が逃げる。
黒沢の氷が獣の足元を凍らせた。氷は一瞬で霧に溶け、獣の息に削られる。それでも足が止まった。
星野が突っ込む。瞬歩で獣の側面へ。拳が水膜を裂き、鱗の下の硬い骨に当たる。星野が顔を歪めた。だが踏み込む。痛みを押し潰すように、もう一発。
真田の幻が獣の目を逸らす。獣の目が多い。二つではない。水膜の奥に、小さな赤い点がいくつもある。幻を見破る目。真田の顔色が少しだけ落ちる。マナ消費が重い。
悠斗は息を吸い、吐いた。
結界を“刃”に変える。膜を一箇所だけ鋭くし、境界の縁を立てる。
獣が息を吐く。その吐息が膜を削る。
削られる前に、縁で“切る”。
空気が裂ける音がした。
水膜が断たれ、獣の体の一部が乾いた。赤い点が一瞬露出する。
黒瀬がその一瞬を逃さなかった。雷が赤点へ落ちる。
赤点が弾け、獣が痙攣した。
獣が吠えた。鐘が鳴るような低い音。霧渠の壁が震える。
震えが人間の骨まで伝わり、胃の奥の甘さがざわつく。
恐怖が漏れる。マナが漏れる。
漏れた分だけ、動けなくなる。
後方で、誰かが倒れた。
佐伯慎だった。大学院生。理系だと言っていた。顔が青い。胸を押さえ、喘ぐ。
息が吸えない。目が焦点を失う。マナが枯れた。霧渠の恐怖と獣の吸い込みで、一気に削られた。
藤堂が叫んだ。
「佐伯さん! 呼吸! 吐いて! 吐いてから吸って!」
藤堂は佐伯の胸に手を当て、治癒の光を流そうとした。
だが治癒は傷を塞ぐもので、枯渇そのものを満たすわけではない。
藤堂の指先が震え、顔色がさらに落ちる。藤堂自身も削られている。
悠斗の喉が乾いた。
ここで佐伯が死ねば、五十が欠ける。欠ければ門が短くなる。
短くなれば、帰れない人間が増える。
帰れない人間が増えれば――殺し合いが起きるかもしれない。
そんな計算が頭の中で勝手に回り、吐き気がする。
計算で人を助けるな、と自分に言いたいのに、状況は計算を要求してくる。
その瞬間、悠斗の視界が一瞬だけ“澄んだ”。
霧が薄くなる。音が遠ざかる。獣の赤い点が、いくつか消える。
獣がこちらを見失ったように、頭を揺らした。
――盲点(ブラインド)。
スキルが勝手に発動したのだと直感した。自分が意識していないのに、世界の側が“見落とす”穴が開く。獣の索敵から、ほんの瞬間だけ外れる。外れた瞬間、こちらの呼吸が楽になる。吸い込みの圧が軽くなる。
黒瀬が叫んだ。
「今だ! 押し切れ!」
星野が獣の喉元へ拳を叩き込む。黒沢の氷が喉を固定する。真田の幻が赤点の視線をずらす。
黒瀬の雷がもう一度落ち、獣の体の内側で何かが破裂した。
獣は崩れた。水膜が霧になって散り、霧渠の空気が一瞬だけ軽くなる。
悠斗の膝が笑った。マナを削られた。息が少し苦しい。だがまだ倒れない。
藤堂が佐伯の肩を抱え、必死に呼吸を整えさせる。佐伯の目が少しだけ戻る。
佐伯が掠れた声で言った。
「……や、やばい……息が……」
藤堂が頷き、短く言った。
「大丈夫。吐いて。吐いてから吸う。ここで焦ると、もっと漏れる」
菊地が獣の死骸――と言うべきか、水の残滓を見つめた。
「吸い込みは、獣の息だけじゃない。霧渠自体が……マナを乱す装置になってる気がする。古い水路の構造が、マナを溜める」
ガルドが低く言った。
「昔、ここは“祠”へ水を運ぶ道だった。水は祈りの一部だった。……祈りの道は、今は獣の巣だ」
祈り。供物。啓示。
この世界では、宗教が生活の骨格になっている。骨格だからこそ、歪めば全てが歪む。
霧渠の奥へ進むと、壁面に古い刻印が増えた。円と線。悠斗の掌の紋と似ている。
境界の図。門の図。
世界の継ぎ目を示す線。
ふと、悠斗は嫌な感覚に襲われた。
自分の背中に視線がある。
後ろではなく、上でもなく、霧そのものの中に。
霧が“目”になって、こちらを見ている気がした。
立ち止まりかけた瞬間、背後で足音が乱れた。
新井が、誰かの背嚢に手を伸ばしていた。
相手は戸田誠――三十代の男で、軽い笑い方をする。
賭け事で生きてきたと言っていた。戸田は雷の魔法持ちだった。
新井が手を引っ込める。戸田が腕を掴んだ。
戸田が低い声で言った。
「おい。何してんだ」
新井の目が泳ぐ。
「ち、違う。確認だよ。落ちてないかって……」
戸田が笑った。笑っているのに、目が笑っていない。
「確認ね。いいよ。確認していい。――代わりに、俺もお前の確認をする」
黒瀬が振り向き、氷のような声で言った。
「やめろ。ここで揉めるな。帰ってからだ」
戸田は黒瀬を見て、肩をすくめた。だが手は離さない。
新井の喉が鳴る。霧より濃い汗が首筋に浮く。
そのとき、霧の中に“揺れ”が生まれた。
最初の供物のときと同じ揺れ。水面の波紋みたいな歪み。
霧渠の壁際、石の陰。そこから小さな革袋が落ちた。中で銀貨が鳴った。さらに小瓶が二つ。淡い青。
全員が一瞬、動きを止めた。
止めたというより、息が止まった。
戸田の手が緩む。新井が目を剥く。
真田が小さく息を漏らす。藤堂が眉をひそめる。
黒瀬の顎が硬くなる。
供物は“助け”なのか、それとも“餌”なのか。
現れた瞬間に、人間の欲が剥き出しになる。
剥き出しになった欲は、霧よりも視界を奪う。
黒瀬が短く命じた。
「回収。私物化するな。全体で管理する。……天城、結界を広げろ。動くな」
悠斗は頷き、膜を少しだけ強めた。
境界の内側に空気の規律を作る。
規律は、暴力より先に群れを救うことがある。
だが規律は、誰かの自由を殺すことでもある。
新井が唇を噛みしめた。
銀貨袋に視線が吸い付く。
その視線が、昨日の銀貨袋の消失と重なり、悠斗の背中が冷えた。
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