第2話
リューン市は、本当に「街」だった。
石の城壁。高い門。尖塔の並ぶ屋根。市場の喧噪。匂い。人の声。子どもが走り、犬が吠える。生活がある。生活があるからこそ、ここが「救い」でもあり「檻」でもある。
門番はノアを見ると姿勢を正した。
「神官殿」
その呼びかけだけで、宗教の権威がこの街を支えていることが分かる。
門の中に入った瞬間、視線が刺さった。
好奇心。警戒。恐怖。期待。
異邦人を見る目。珍しい獣を見る目。金になるものを見る目。
悠斗は無意識に肩をすくめた。見られるのが苦手だ。大学でも、人前で発表するときはいつも胃が冷える。なのに今は、街全体が自分を見ている。
「器だ」
誰かが小さく呟いた。灰燈界の言葉を知らないはずなのに、その言葉は悠斗の耳に意味として入った。
器。ノアが言った単語。ここでは共通語として通じる。通じることが、逆に不気味だった。
最初から、通じるように調律されている。神の儀式がそうしたのか。そうだとしたら、どこまでが神の手の中なのか。
教会の宿坊に通され、湯気の立つスープとパン、干し肉が出た。水もある。空腹は確かにあるのに、一口目が喉を通るまで時間がかかった。食べるという行為が、現実を固定してしまう。固定してしまえば、もう戻れない気がした。
宿坊の広間には、すでに人が揃っていた。教会の司祭、領主の役人、冒険者ギルドの代表。
政治の匂いがする。最初からそうだ。この世界は、救いより先に利害が来る。
ギルド代表は、厚い指輪をはめた男だった。笑顔はあるが、目が値札みたいに冷たい。
「ようこそ、異邦の方々。神官殿から話は聞いている。門喰い討伐のため、協力を求めたい」
黒瀬が前に出る。
「協力はする。だが条件がある。こちらに必要な装備と情報を提供してほしい」
「装備と情報は金になる」
ギルド代表は即座に返した。
「あなたたちは金を持たない。どうする?」
ノアが口を開く前に、早乙女が立った。弁護士の声音は、戦場ではなく法廷のそれだ。だが法廷もまた戦場だ。
「契約を結びます」
早乙女は言った。
「教会が当面の宿と食料を提供する。ギルドは探索のための基礎装備と案内を用意する。領主は街の中での安全を保証する。その代わり我々は封鍵探索と門喰い討伐に従事する。……討伐後、灰燈界側から支払われる報酬は、まずギルドの貸与分を返済し、残りを分配する」
役人が眉をひそめる。
「報酬が確定している保証は?」
ノアが淡々と言った。
「啓示は『討てば器は還る』と告げた。報酬は、還ることそのものだ。……灰燈界の側は、生存のために支払うだろう」
ギルド代表は笑った。
「神官殿の言う通りだ。門喰いが暴れれば、街も畑も終わる。ならば投資はする」
黒瀬が頷く。
「決まりだ」
そこで初めて、五十人が「集団」になる。
契約という名の檻に入る。檻に入れば、檻の外の獣からは守られる。檻の中で殺し合わなければ、だが。
その晩、宿坊の廊下で、悠斗は久世に声を掛けられた。
「大学生」
久世は壁にもたれていた。蝋燭の灯が彼の顔に影を作り、影がそのまま皮膚に貼り付いているように見える。影の魔法のせいか、それとも元々の雰囲気か。
「……はい」
「天城、だっけ」
久世は名前を確かめるように言った。
「お前、目立たないな」
「……悪いですか」
久世は小さく笑った。笑いは乾いている。
「いや。こういうとき、目立たないやつが生き残る。目立つやつは、目立った分だけ刃が飛んでくる」
刃。
悠斗は喉の奥が乾くのを感じた。
「けどさ」
久世は続けた。
「目立たないやつは、置いてかれる。救われない」
救われない。
どちらも嫌だ。目立てば刃。目立たなければ見捨てられる。
どっちに転んでも、誰かの都合の上にいる。
久世は悠斗の掌を一瞥した。掌の紋が薄く光っているのが見えたのかもしれない。
「勘だが、お前の魔法、防御系な気がする。そういうやつは、肉体的にも精神的にも真っ先に疲れる」
言い捨てて、久世は廊下の闇に溶けた。影が彼を飲み込んだように見えた。
***
翌日から、訓練が始まった。
ギルドの訓練場は土の匂いが濃かった。木剣の音、掛け声、汗の匂い。冒険者たちが見物しに来る。
召喚者は見世物ではない、と黒瀬が言っても、見物の目は減らない。利害は好奇心の皮を被って寄ってくる。
「マナを、息で整えろ」
教官役の冒険者が言った。
「胸で吸うな。腹で吸え。吐くときに、掌の紋へ流せ」
悠斗は言われた通りに息を吸い、吐いた。腹の奥の冷たい甘さが掌へ流れる。掌の紋が熱を帯び、空気が微かに歪む。
「出た!」
隣の誰かが叫ぶ。火花が散った。火の魔法だ。
別の誰かが水を出し、床が濡れた。
雷が走り、風が吹き、影が伸び、光が瞬く。
悠斗は自分の前に、薄い膜が立ち上がるのを見た。透明な壁。壁の向こうの音が少しだけ遠くなる。
膜が「ここまで」と言っている。境界。結界。
「結界か」
教官が頷いた。
「珍しい。防御と制御に向く」
黒瀬がすぐに目を光らせた。
「使える。前衛の盾になる」
盾。
その言葉が胃を冷やす。盾は殴られる前提だ。だが、盾がなければ誰かが死ぬ。
「スキルは、どうやって分かるんだ」
誰かが訊いた。
教官は肩をすくめる。
「分かるやつは分かる。分からんやつは、分からん。だが戦場で勝手に出る」
勝手に出る。
嫌な言い方だ。自分の知らない自分が、勝手に発動して状況を変える。便利であるほど、怖い。
その日の午後、ギルドから依頼が出た。
「街道の外れで、魔物化した狼が出た。畑を荒らし、家畜を襲っている。討伐してほしい。ついでに村の様子も見てきてくれ」
門喰いの前に、まずは小さな仕事で「戦力」としての値踏みをする。分かりやすい流れだ。
黒瀬は隊を組んだ。悠斗、藤堂、黒沢(消防の救助隊)、星野(格闘家)、真田、八代、菊地。
早乙女は街に残り、契約の細部を詰めると言った。久世は別隊を勝手に作り、ギルドの別の依頼へ向かった。
村へ向かう道は、土と草の匂いが濃い。空が低く、雲が重い。
途中、藤堂が悠斗に言った。
「天城くん、顔色いいね。マナの馴染みが早いのかも」
「……そんなこと、あるんですか」
「あるよ。多分。だって、私は治癒するとすぐ息が苦しくなるもの」
藤堂は冗談みたいに言ったが、目は笑っていなかった。
看護師の目は、現実から逃げない。
村は小さかった。
畑と柵と、石造りの家がいくつか。人々の顔が疲れている。
村長が出てきて、頭を下げた。
「器の方々……助けてください。狼が、夜に来る。家畜だけでなく、人も……」
狼は、畑の端にいた。
大きい。地球の狼の倍はある。毛の隙間に黒い斑点が走り、そこから霧のようなものが漏れている。目が赤い。赤いというより、内側から灯が点っている。
「魔物化……」
菊地が呟く。
「マナが溢れてる」
狼が低く唸った。音が空気を震わせる。胸の奥の甘さがざわつき、皮膚の下の紋が熱を帯びる。恐怖で漏れる、というノアの言葉が蘇る。怖いと思えば弱くなる。分かっていても、怖いものは怖い。
「落ち着け」
黒瀬が低く言った。
「呼吸。息で整えろ」
悠斗は息を吸って吐いた。
掌に熱が集まり、結界が薄く立ち上がる。
狼が跳ぶ。結界にぶつかり、鈍い音がした。ガラスを叩くような音。狼が驚いて後退する。
「よし」
星野が前へ出た。
風のように速い。瞬歩のスキルだと言った。
拳が狼の顎を打つ。だが狼の骨は硬い。
星野の拳が痛そうだ。それでも星野は笑った。
「効く!」
黒沢が氷の鎖を伸ばし、狼の足を絡める。狼が唸り、鎖が軋む。
真田が手を振ると、狼の視線が揺れた。幻が空間を撫で、狼が空を噛む。
その隙に、黒瀬の雷が落ちた。
白い閃光。爆ぜる音。焦げた匂い。
狼の体が痙攣し、倒れた。土が焼け、畑の匂いが変質する。
勝った。
勝ったはずなのに、悠斗の胃が冷たくなる。倒れた狼の目は赤いままだ。死んでいるのに、灯が消えない。
魔物化は死んでも残る? それともこれは別の何か?
藤堂が近づき、狼の体を確認した。
「……血、止まってる。死んでる。けど……変だね」
村人たちは泣いて礼を言い、畑の端で祈った。
祈りが終わった瞬間だった。
空気が、裂けた。
畑の真ん中。何もない空間が水面のように波打ち、そこから「もの」が落ちた。布。革。金属。小さな瓶。銀貨の袋。
落ちたのに、音がしない。地面に置かれたみたいに、そこにある。
全員が固まった。
「……何だ、これ」
黒瀬が言った。
「罠じゃない?」
藤堂が身構える。
村人の一人が膝をつき、十字を切った。
「祝福だ……器に降る供物だ」
供物。
その言葉が、妙に馴染んでしまうのが怖い。
異世界の現象に意味を与えることで、現象が「正当化」されてしまう。
正当化されれば、人はそこに依存する。
菊地が瓶を手に取り、匂いを嗅いだ。
「お約束だとポーション的な回復薬か、マナ回復薬とか?」
真田が笑った。
「神のご褒美なのか。ほら、俺ら、器だし」
「軽口を叩くな」
黒瀬が睨む。
だが真田の軽口が、場の空気を少しだけ和らげたのも事実だった。
人は恐怖の中で、冗談を欲しがる。
装備の中に、短い槍があった。柄に紋が刻まれている。
星野が手を伸ばし、槍を握る。槍の表面に薄い光が走り、星野の掌の紋と同じリズムで脈打った。
星野が目を丸くする。
「……軽い。めちゃくちゃ手に馴染む」
黒瀬が別の剣を持ち上げようとした。剣は持ち上がったが、黒瀬の手の中で鈍く重くなった。まるで石を持っているみたいに。
「……使えない」
黒瀬が眉をひそめる。
星野がその剣を受け取ると、剣は軽くなる。
藤堂が呟いた。
「装備は……“誰かに”結びついてる?」
菊地が即座に結論を出す。
「消耗品や金は誰でも使えるけど、装備は固有って感じなのか」
固有装備。
その言葉が、悠斗の背中を冷やした。
久世が昨夜言った。
「目立つやつは刃が飛んでくる」。
選ばれることは、救いか。呪いか。
選ばれない者は、置いていかれるのか。
黒瀬が言った。
「村の前で揉めるな。持ち帰って分配する。……ここで欲を出したら終わりだ」
村人たちは供物を見て目を見開き、同時に畏れてもいる。
この世界の人間にとっても、それは「普通」ではない。
つまり――神の領域の現象だ。
神は、確かに介入している。
だが、なぜ。どういう基準で。何のために。
悠斗は供物の中に、黒い外套を見つけた。
地味な色。目立たない。
誰かが触れようとした瞬間、外套がひらりと翻り、悠斗の方へ滑るように落ちた。
偶然か。風か。
外套の裾が悠斗の足に触れた瞬間、皮膚の下の紋が熱を帯びた。
――これは、俺のものだ。
そう直感してしまう自分が怖かった。
物が「自分のものだ」と体が言う。そんなこと、地球では起きない。
その夜、宿坊へ戻る道すがら、村人が何度も頭を下げた。
「器の方々、神があなたたちを守りますように」
祈りの言葉は優しい。だが祈りは、時に鎖になる。
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