結界魔法と隠密スキルで生き延びる~異世界転移の帰還条件がボス討伐でした

@seijin_777

第1話

四月の講義棟は、雨の匂いを残したまま乾きかけていた。

濡れたコンクリートが陽に炙られて、微かに甘いような、鉄臭いような匂いを立てる。

天城悠斗はその匂いが嫌いではなかった。

大学の空気は、いつもどこかで誰かが急いでいて、急ぎながら同時に怠けてもいて、つまり人間の矛盾がむき出しで、少し笑える。


講義の終わり際、隣の席の男子がノートを閉じながら言った。


「なあ天城、課題さ、あれさ……」


返事をする前に、悠斗は自分の指先を見ていた。指の腹に白い粉が付いている。黒板のチョークだ。いつ触ったのか分からない。分からないのに、確かにそこにある。世界は、そういう小さな不確かさで出来ている。


「天城?」


呼ばれて、ようやく顔を上げた。その瞬間だった。


白。


眩しいのではない。明るいのでもない。色が剥がれた。音も匂いも剥がれた。自分という輪郭が、紙のように薄くなっていく。足の裏が床を感じなくなり、重力が何かの冗談みたいに遠ざかった。


――境目。


最近見る夢の言葉が、頭の中で鳴った。世界の継ぎ目を探す夢。そこに指を差し込めば裂ける気がする夢。夢の中の自分は、それを怖がりながら、どこかで待っている。裂ける瞬間を。


その瞬間が、夢じゃなくなった。


白が折り畳まれ、反転し、圧縮され、次の瞬間、世界は一気に重量を取り戻した。骨に直接冷たさが当たる。

石の冷気が膝に刺さり、喉の奥に香木の甘い煙が絡む。空気が濃い。湿っているわけではないのに、肺が「重い」と感じる。


悠斗は咳き込み、掌を石に付けた。刻まれた溝。円。幾何学。触れると微かに熱い。冷たい石のはずなのに、熱がある。


「……っ、どこだよ、ここ……」


声が出た。自分の声だ。ちゃんと響いた。自分がまだこの世界にいると分かると、恐怖が遅れて来た。背中が汗ばみ、心臓が早鐘を打つ。


周りに、人がいた。


石段に座り込んでいる高校生。スーツ姿の男。作業着の中年。ジャージの青年。看護服の女性。迷彩柄のズボンを穿いた男。総勢――数え切れない。ざわめきが渦になって、石造りの空間を満たしている。


祭壇だった。


円形の祭壇。中央には背の高い石柱が立ち、その上に古い鐘が吊られている。鐘は鳴っていないのに、空気に微かな振動が残っている気がした。耳鳴りのように、遠くでガラスが擦れるように。


「おい、スマホ! 圏外って何だよ!」


誰かが叫び、別の誰かが泣き出した。現実を受け入れたくない声が、いくつも重なる。


その混沌の中心に、ひとりだけ「定まった」姿があった。


白い法衣。胸元に銀の紋章。淡い金の髪。青い瞳。年は二十前後に見える。肌は若いが、目の奥が古い。祈り過ぎた目をしている。


彼は一段高い場所に立って、深く息を吸った。そして、柔らかな声で言った。


「あなたたちに謝らなければなりません」


日本語だった。


完璧な発音でも、妙な訛りでもない。耳の奥にそのまま滑り込んでくる言葉。意味が理解できることが、逆に怖い。なぜ言葉が通じる? 問いを立てるより早く、青年は続けた。


「私はノア。灰燈界――この世界の、マナ教会に仕える神官です。あなたたちは、私が執り行った儀式によって、ここへ招かれました。……神の啓示によって」


「誘拐かよ!」


誰かが飛び出そうとした。二十代の男。腕を振り上げ、石段を駆け上がる。しかし祭壇の縁に足を掛けた瞬間、男の膝が崩れた。まるで見えない壁に押し返されたみたいに、体が投げ出される。石に肩を打ち、呻いた。


「暴力は、やめてください」


ノアの声は揺れない。怒鳴らない。怒鳴らないから余計に冷たい。


「私は、神から伝えられたことをすべて話します。隠しません。……ここで聞かないなら、あなたたちは死にます」


死。


その言葉だけで、場の温度が変わった。騒ぎがひとつ段落し、呼吸の音が増えた。人間は「死」という単語の前では、どれだけ強がっても素直になる。


ノアは両手を胸の前で組み、ゆっくりと言葉を置いた。


「まず、ここはあなたたちの世界ではありません。灰燈界。マナが満ちる世界です。あなたたちの身体には、マナを扱うための器官――『器(うつわ)』が開きました。……そして、それぞれにひとつの魔法、ひとつのスキルが与えられています」


悠斗は反射的に自分の掌を見た。掌の中央、皮膚の下に薄い文様が浮かんでいる。刺青ではない。皮膚の下を光が走る。円と線。境界の図。見ているだけで、胸の奥が冷たい甘さで満ちてくる。


「それが器の紋です」


ノアが言う。


「印ではなく、通路。あなたたちはこの世界でマナを吸い、使える。……しかし注意してください。マナが枯渇すれば、視界が暗くなり、倒れる。無理をすれば死にます」


「そんな、ゲームじゃあるまいし……」


誰かが笑いかけた。だが笑いは途中で途切れた。笑った男の顔色が急に青くなり、胸を押さえて膝をついた。肩が上下し、息が吸えない。周りが慌てて背中を叩く。

誰かが叫ぶ。


「救急車――」


と言いかけて言葉を失う。ここに救急車はない。


「恐怖や混乱で、マナが漏れる者もいます」


ノアは淡々と言った。


「落ち着いて、呼吸を整えてください」


言われて、悠斗は息を吸った。重い空気が肺に入る。すると胸の奥の冷たい甘さが、確かに増えた。胃の辺りに、静かな泉が湧くように。自分の体が、もう「別の仕組み」を受け入れ始めていることが分かる。


ノアは続けた。


「神の啓示はこう告げました。――『門喰い(ゲートイーター)を討て。討てば器は還る。討たねば門は裂け、灰燈界の魔物はあなたたちの世界へ溢れる』」


ざわめきの質が変わる。「帰れる」という言葉が、恐怖の中に火を点す。火は暖かいが、同時に争いの道具になる。


「門喰いは、灰燈界の南方、黒環山の地下――塞穴(さいけつ)に棲む厄災級の魔物です。魔物化した獣ではありません。門そのものを喰い、門を肥やす存在。……あなたたちが還るための『核』を抱いている」


「核って何だよ!」


誰かが叫ぶ。


ノアは首を横に振った。


「形は啓示に示されていません。ただ、『核を祭壇に置け』と告げられました」


そこまで言って、ノアは一度だけ目を閉じた。疲労が一瞬だけ顔に滲む。次に目を開いたとき、その疲労は神官の仮面の裏に押し込められていた。


「そして、あなたたちは五十人。五十という数は偶然ではありません。儀式が安定する最小の数です。……欠ければ、帰還の門が開く時間は短くなる」


空気がぴん、と張った。


「つまり、死ぬなってことか?」


誰かが呟く。


「死ぬな、では足りません」


ノアの声が淡い残酷さを帯びる。


「……生き残り、協力し合え、ということです」


協力。


言葉は美しい。だが五十人の人生が一瞬で絡め取られた今、その美しさは息苦しさにも似ていた。


「あなたたちを、街へ案内します」


ノアが手を広げた。


「ここから半日ほどの場所にリューン市があります。食料も水も寝床もある。治療もできる。……しかしあなたたちは異邦人です。庇護を求めるなら、教会と領主、ギルドの間で話を通す必要がある」


「ギルド?」


誰かが小さく繰り返した。現実の単語が、異世界の口から出ることがさらに現実感を剥がす。


「灰燈界には、冒険者ギルドがあります。討伐や探索の依頼を仲介し、戦力を管理する組織です」


ノアは淡々と説明する。


「あなたたちが門喰い討伐のために動くなら、避けて通れません」


誰かがノアを睨んだ。


「お前らの都合じゃねえか」


ノアは、真正面からその視線を受け止めた。


「……そうです。灰燈界は困っています。マナが飽和し、生物が魔物化し、厄災が増えた。門喰いはその象徴です。私たちだけでは、対処が追いつかない。だから神は、あなたたちを招いた」


彼はそこで一拍置き、声を少し柔らかくした。


「けれど、あなたたちの都合でもあります。還りたいなら、門喰いを討つしかない」


正しい。

その正しさが、耳の奥で硬い音を立てる。理屈は分かる。分かるからこそ、逃げ場がない。


祭壇を出ると、空が異様だった。青が薄い。雲が低い。風が冷たいのに、匂いが濃い。土と草と、どこか甘い香木の残り香。鳥の声が遠い。山々は黒ずんで見える。


列になって歩き始めたとき、黒瀬恒一という男が自然に前へ出た。背筋が真っ直ぐで、歩き方が「部隊」だった。三十代半ば。目が冷たいのではなく、冷静だ。冷静であることが武器になっている。


「とりあえず名簿」


黒瀬が言った。


「名前、年齢、職業。魔法とスキルは分からなくてもいい。ただ――勝手に離脱するな。死ぬ」


「命令かよ」


誰かが噛みついた。


黒瀬は視線だけで返した。怒鳴らない。怒鳴らないから、言葉が体に刺さる。


「提案だ。まとまらないと、門喰いとかいうのを倒す以前に崩れる」


崩れる。

その言葉が嫌に具体的だった。人間は外敵より、内側から崩れるのが早い。悠斗はそのことを、大学の小さなグループワークでも知っている。


「天城悠斗、十九、大学生」


悠斗は自分の声で言ってみた。声が少し震えた。


「魔法とスキルは……分からない」


黒瀬は頷き、短くメモした。


続けて、看護服の女性が名乗る。


「藤堂美咲、二十八、看護師。魔法は……治せる感じがする」


「黒瀬恒一、三十四、警察官」


黒瀬は自分も言った。


「雷っぽいのが出るな」


笑い声が混じった。


「真田智也、十九、配信者! 魔法は多分、幻。スキルは……なんか、場が回る感じ?」


軽い。軽いのに空気が少し柔らかくなる。こういう人間が群れの恐怖を散らす。散らしながら、別の火種も撒く。


列の後方で、久世纏がぼそりと名乗った。


「久世、三十。職は……情報屋みたいなもん。影。隠密」


言い方が曖昧なのに、どこかで「本当」を含んでいる。久世の目は笑っていない。笑っていないのに、口元だけが薄く上がっている。


「菊地由香里、四十一。研究者。……錬成? 解析?」


淡々と名乗った女は、感情より先に現象に興味が向いている目をしていた。恐怖がないわけじゃない。ただ恐怖が「素材」になっている。


早乙女涼は弁護士だと言った。光と契約、と口にしたとき、自分で自分の言葉に驚いたみたいに瞬きをした。


八代春はエンジニア。空間と地図化。彼は歩きながら周囲の地形を目で拾い、頭の中で地図を作っている顔をしていた。


五十人の名簿が完成する前に、すでに小さな派閥が生まれ始める。黒瀬の近くに寄る者。真田の周りで笑う者。久世の周囲で小声で話す者。誰にも寄らず、ひとりで黙る者。


悠斗は、誰にも寄れないまま歩いていた。


胸の奥の冷たい甘さが、歩くたびに揺れる。マナ。吸えば満ちる。使えば減る。減れば苦しくなる。自分の体の中に、見えない残量があるような感覚。残量が見えないのが、余計に怖い。


――――――――――――――――

どうもSeijinです。

第1章までは既に書き終えているので、年末年始に一気に放出します。

目標は1時間毎の更新です。

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