第4話
代官の徴税部隊を追い払った翌日。
ハインベルグ領には、表面上は穏やかな朝が訪れていた。
しかし、我が家の食卓を包む空気は、通夜のように重い。
「……アレス。お前の力には驚いたし、助けられた。だがな、相手は代官だ。あんな真似をすれば、次は騎士団の本隊、あるいは傭兵団を差し向けてくるだろう」
父カシムが、手付かずのパンを前にして溜息をつく。
彼の懸念は正しい。地方の小貴族にとって、代官の不興を買うことは死を意味する。
だが、俺の計算は少し違う。
(代官の性格からして、すぐに軍を動かす勇気はない。まずはメンツを潰した俺を『賊』として仕立て上げる準備をするはずだ。傭兵を集め、包囲網を敷くまでに——約三週間)
その三週間が、勝負の分水嶺になる。
俺一人の武力だけでは、村を守り抜くことはできない。
「防衛の核」となる組織が必要だ。
「父上。代官様も人間です。話し合えばわかってくれるはずですよ。僕は少し、広場で友達と遊んできますね」
俺は無邪気な子供を演じ、家の外へと飛び出した。
向かう先は村の広場。
そこには、俺が狙いを定めていた「素材」たちが集まっている。
***
「おいおい、誰かと思えば『無能のアレス』じゃねえか。昨日は代官様の兵隊を追い返したって噂だが……どうせ嘘だろ? お前みたいな魔力Fランクの弱虫に何ができるんだよ」
広場の中央で、鼻を鳴らして笑う少年がいた。
逆立った赤髪に、鋭い眼光。
バルド、十歳。
村のガキ大将であり、猟師の息子だ。
今はただの乱暴者だが、前世の記憶によれば、彼は数年後に魔物に村を焼かれた絶望から覚醒し、後に数万の軍勢を一人で薙ぎ払うことになる帝国最強の戦士——『獣王』バルドその人である。
「嘘だと思うなら、試してみるか? バルド」
「あぁ?」
「鬼ごっこだ。僕の体に一度でも触れられたら、僕の負け。負けたら、僕の家に隠してあるとびきり旨い干し肉をやるよ」
肉、という言葉にバルドとその仲間たちが色めき立った。
この村で肉は貴重品だ。
「へっ、面白え。後で泣いて謝っても許さねえからな!」
バルドが吠えると同時に、鬼ごっこが始まった。
野生児そのままの爆発的な脚力で、バルドが距離を詰めてくる。
だが。
(——右足の踏み込みが深すぎる。次は左へ旋回するな)
俺は一歩も動かずにバルドを見据え、彼が腕を伸ばした瞬間、わずか数センチだけ重心を横にずらした。
「はっ……!? スカった!?」
空を切り、勢い余って地面を転がるバルド。
俺は右腕の古代兵器『アガートラーム』の演算機能を思考の補助に使用していた。
バルドの視線、筋肉の弛緩、呼吸の周期。
それらすべての情報がデジタル信号のように脳内へ流れ込み、一秒先の未来を導き出す。
前世で数多の戦場を支配した軍師の「戦術予測」を、たかが鬼ごっこに投入しているのだ。負けるはずがない。
「どうした。僕はまだ一歩も走っていないぞ」
「この野郎……! 次は逃がさねえ!」
バルドは必死に食らいついてくるが、俺の服の端にすら触れることができない。
俺は最小限の動きで、まるで見えない壁があるかのようにバルドの攻撃を躱し続けた。
やがて。
「はぁ……はぁ……な、なんで……なんで当たらねえんだよ……!」
地面に膝をつき、肩で息をするバルド。
周りの子供たちも、口をあんぐりと開けて固まっている。
「知りたいか? バルド。お前が当たらないのは、お前の体が『非効率』な動きをしているからだ」
「ひ、ひこうりつ……?」
「お前は力を入れるタイミングが早すぎる。走る時は爪先ではなく足の裏全体で地面を噛め。そして、僕を捕まえようとする時は『手』ではなく『胸』で僕を見ろ」
俺はバルドに近寄り、彼の関節を軽く叩いて姿勢を矯正した。
ついでに『アガートラーム』から微弱な電磁刺激を送り、彼の神経系を最適化させる「遊び」を教え込む。
「今の感覚を忘れるな。もう一回だ。今度はみんなで僕を囲んでみろ」
それから数時間。
俺は「遊び」と称して、子供たちに陣形(フォーメーション)と、無駄のない身体操作を叩き込んだ。
本人たちは、アレスを捕まえるための楽しいゲームだと思っている。
だが、その中身は前世で帝国最強と言われた特殊部隊の『基礎教練』そのものだ。
後に歴史家たちは、帝国を滅ぼした無敵の私兵団『神殺しの一〇八人』の強さの秘密を熱心に研究することになる。
彼らが導き出した答えは「徹底的に無駄を省いた、合理的すぎる基本動作」であったが、それが辺境の村での「鬼ごっこ」から始まったと知る者は、一人もいない。
***
日が暮れる頃。
広場には、疲れ果て、しかしどこか満足げな顔で横たわる子供たちの姿があった。
「……アレス。お前、マジでスゲーな……」
バルドが、敬意の混じった瞳で俺を見上げた。
鼻を垂らし、泥にまみれた十歳の少年。
だがその眼光には、確かに英雄の片鱗が宿り始めている。
「明日もやるか? バルド」
「おうよ! 絶対捕まえてやるからな……兄貴!」
その言葉を境に、他の子供たちからも「アレス兄貴」という声が上がり始めた。
懐柔、完了。
まずは村の次世代を完全に掌握した。
俺が彼らを見送っていると、夕闇の向こうから、冷たい風が吹いてきた。
同時刻。
ハインベルグ領の隣にある、代官の居館。
「……何だと? 下級騎士のバルトロが、十歳のガキに負けただと?」
贅肉のついた顔を怒りで歪ませ、代官ベックマンが机を叩いた。
目の前で震えているのは、ボロボロの鎧を着た敗残兵だ。
「は、はい……ただのガキではありません。あれは、化け物です……」
「ふん、田舎貴族の出来損ないが、何か邪法でも使ったのだろう。……おい、呼べ。『鉄牙傭兵団』をだ。法に頼るまでもない。賊に村を襲わせ、ついでに邪魔なハインベルグ一家を皆殺しにしてやる」
代官の背後から、血の匂いを纏った男たちが姿を現す。
金で動き、殺しを娯楽とするプロの傭兵たち。
***
村の境界線に立ち、俺は夕闇の中に蠢く「気配」を感じ取っていた。
右腕のアガートラームが、数キロ先からの殺気を感知し、小さく共振している。
敵は、法も慈悲も持ち合わせない人殺しの集団だ。
「……まずは一隊。良い『教材』が向かってきているな」
俺は、恐怖ではなく、冷徹な歓喜を胸に抱いて微笑んだ。
せっかく鍛え始めた子供たちだ。
最初の実戦教育は、これ以上ないほど贅沢な相手になりそうだ。
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