第2話

石造りの扉の向こうに広がっていたのは、松明の火が必要ないほどに明るい、白銀の空間だった。


 壁面には規則正しく並んだ発光体が埋め込まれ、現代の魔法文明とは明らかに異なる、無機質で冷徹な「機械的な美」を放っている。


「……変わっていないな。相変わらず、ここは死の臭いがする」


 アレスは小さく呟き、迷いのない足取りで奥へと進む。

 前世において、帝国がこの場所を『発掘』したのは二十年後のことだ。

 当時、帝国の宮廷魔導師たちは、この遺跡を「神が遺した魔法回路」と呼び、解析に十年を費やしてなお、その一割も理解できなかった。


 だが、アレスは知っている。

 これが魔法などではなく、失われた時代の『科学』という名の技術であることを。


 通路の先に、赤い光を放つレンズが備え付けられた巨大な門が立ちはだかる。

 現代の魔導師なら、ここで強力な攻撃魔法をぶつけて自爆するか、結界に弾かれて終わりだ。


 アレスは門の横にある操作パネルに指を滑らせた。


「音声認識によるログインを拒否。手動入力(マニュアル・バイパス)に移行。管理者権限(アドミニストレーター)コード——『ゼウス・ゼロ・ゼロ・エイト』」


 虚空に浮かび上がった青い文字盤に、アレスは淀みなくコードを打ち込む。

 今の彼には、魔力などほとんどない。

 測定すれば『Fランク』という、平民以下の評価を下されるだろう。


 だが、そんなものは関係ない。

 鍵を知っていれば、どれほど強固な金庫であっても、指先一つで開くのだから。


『——管理者権限を承認。生体認証をスキップします。ようこそ、マスター』


 電子的な合成音声が響き、巨大な門が音もなくスライドした。

 魔力など一滴も使っていない。

 情報を制する者が、物理的な力を制する。軍師としての俺の信条は、回帰しても変わることはなかった。


 ***


 部屋の最深部。

 円柱状のガラスケースの中に、それは鎮座していた。


 鈍く、しかし美しく銀色に輝く右腕のパーツ。

 古代の兵装の中でも、単体での制圧能力において右に出るものはないと言われた傑作。


「……久しぶりだな、相棒。いや、今は初対面か」


 魔導外骨格——『アガートラーム』。


 アレスがケースに触れると、ガラスが霧のように消散した。

 彼は迷わず、自分の右腕をその金属の隙間へと差し込む。


 次の瞬間。


「——っ……があああああああっ!!」


 凄まじい激痛がアレスを襲った。

 金属の触手が少年の細い腕を締め上げ、皮膚を裂き、筋肉を貫き、神経へと直接プラグを突き立てていく。

 強制的な神経接続(ニューラル・リンク)。

 十歳の子供が耐えられる負荷ではない。


 だが、アレスは血を吐きながらも、その口角を吊り上げた。


「く……ははっ! 処刑の時に首を断たれた痛みに比べれば……こんなもの、愛撫のようなものだ……!」


 脳内に電子的なノイズが走り、視界に膨大なデータがオーバーレイされる。

 やがて、右腕を覆う銀色の装甲がアレスの意思に従って、静かに脈動を始めた。


『リンク完了。出力レベル……全機能の〇・五%に制限。適合者の身体的脆弱性を考慮します』


「〇・五%か。十分すぎる」


 アレスは試しに、部屋の隅にある巨大な岩壁に向かって右腕を軽く突き出した。

 衝撃波も、光線も出ない。

 ただ、金属の指先が岩に触れただけだ。


 ——ズガァァァン!!


 一瞬の静寂の後、巨大な岩壁が分子レベルで粉砕され、細かな塵となって四散した。

 高周波振動による物質崩壊。

 魔力耐性など無視して対象を「消滅」させる、神殺しの力だ。


 アレスは満足げに、銀色に輝く右腕を見つめた。

 彼は精神を集中させ、内蔵された幻惑機能(ホログラム)を起動する。

 すると、物々しい金属の腕は、瞬く間に普通の子供の腕へと擬態された。


「さて、準備は整った」


 復讐の第一歩。

 まずは、この穏やかな村に近づく「汚物」を片付けるところから始めるとしよう。


 ***


 村へ戻った頃には、東の空が白み始めていた。

 アレスが静かに家の扉を開けると、そこには夜明け前だというのに、食卓を囲んで沈み込む両親の姿があった。


 父、カシム。

 この村を守る騎士爵であり、誠実さだけが取り柄の男。

 彼は、拳が白くなるほど机を強く叩き、絞り出すような声で言った。


「……あり得ん。こんな理不尽が通っていいはずがない」


 母、ニーナは、涙を溜めた瞳でアレスを見た。

 アレスが帰ってきたことに気づき、彼女は慌ててその涙を拭う。


「アレス、早起きね……。ごめんなさい、大きな声を出してしまって」


「母上、何があったのですか?」


 アレスは努めて子供らしく、無邪気に問いかけた。

 ニーナは震える声で答えた。


「先ほど、代官様からの使いが来たの。……今年の税を、昨年の三倍にすると」


「三倍……?」


 アレスの瞳の奥で、冷徹な計算が走る。

 前世の記憶では、増税が始まったのは来年のはずだった。

 回帰によって、歴史の歯車にわずかなズレが生じている。

 あるいは、アレスが回帰したこと自体が、何らかの影響を及ぼしたのか。


「三倍なんて払えるわけがない! そんなことをすれば、村人は冬を越せずに皆餓死してしまう。それを伝えても、代官の使いは『払えないなら土地を没収し、女子供は奴隷として売れ』と……!」


 カシムが苦渋に満ちた表情で頭を抱える。

 これが、この世界の現実だ。

 魔力を持たない、あるいは家格の低い者は、上位の者の気まぐれ一つで人生を粉砕される。


 カシムは「正しい方法」で解決しようとしている。

 嘆願書を書き、道理を説き、慈悲を乞う。

 だが、そんなものが強欲な捕食者に通じないことを、アレスは痛いほど知っていた。


「……父上、母上。お腹が空きました。朝食のスープをいただけますか?」


 アレスは平然とした様子で席に着いた。

 絶望に染まった食卓で、十歳の少年だけが、驚くほど冷静にスプーンを口に運ぶ。


(税の三倍増。代官による不当な搾取。そして、逆らう者への奴隷落ちという脅迫——)


 アレスの脳内では、すでに「盤面」が完成していた。

 代官の資産状況、癒着している商人、そして彼が過去に犯してきた汚職の記録。

 それらをどう組み合わせれば、最も効率的に、最も残酷に、この敵を再起不能に追い込めるか。


 27通りの破滅プラン。

 そのどれを選んでも、代官に明日は来ない。


(まずは一人目だ。俺の家族に、俺の領地に手を出した代償……高くつくぞ)


 アレスはホログラムの下で、銀色の右腕をゆっくりと握りしめた。

 冷たいスープを飲み干し、彼は窓の外、領主の館がある方向を見据えて、小さく独白した。


「……まずは、身の程を教えてやる必要があるな」


 かつて世界を震撼させた『国崩しの軍師』。

 その牙が、最初の獲物に向けて静かに剥かれた。


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