最終話 最後の書き込み
道具は嘘をつかない。
だが、その手入れ(メンテナンス)に使われる液体が、ラベル通りの成分とは限らない。
日曜日の午後。
旧湾岸物流センタービル。
床の崩落によって部下を失ったリーダーは、半狂乱で銃口を織部に向けていた。
「殺してやる……! 貴様だけは、絶対に!」
距離は十メートル。
織部は逃げない。
キャットウォークの手すりに手をかけ、悲しげな目で男を見下ろしている。
そして、ふと思い出したように、自分の親指の腹についた「黒いシミ」をハンカチで拭った。
「……やはり、特殊ポリマーの汚れは落ちにくい」
「あぁ? 何を訳の分からないことを!」
「撃たない方がいいと言っているんです。その銃は、今は『銃』としての要件を満たしていません」
「黙れぇぇぇッ!!」
リーダーは警告を無視し、引き金を引いた。
乾いた発砲音が響く――はずだった。
――バキンッ!!
弾丸は出なかった。
次の瞬間、金属が悲鳴を上げて裂け、銃は『銃の形』を保てなくなった。
内部で何かが癒着し、逃げ場を失ったガス圧が筐体を破壊したのだ。
「ぐあああッ!?」
リーダーは悲鳴を上げ、銃を取り落とした。
右手は裂傷と衝撃で使い物にならなくなっている。
彼は激痛に耐えながら、後ずさった。
織部は静かに階段を降り、男の足元に転がったアサルトライフルの残骸を見下ろした。
「あなたがたはプロだが、少し『場所』を過信しすぎだ」
織部はポケットから、油汚れのついた小さな瓶を取り出した。
「あなた方がこのビルに到着し、機材を運び込んだ時。……私はすでに、あなた方の気配に紛れて侵入(ログイン)していました」
リーダーの顔が驚愕に歪んだ。
彼らはプロだ。周囲の警戒は厳重に行っていたはずだ。
だが、この男は彼らの認識の外側、まるで空気のように、その死角(シャドウ)に張り付いていたというのか。
「あなた方が『誰もいない廃ビル』だと思い込み、地下シャッターの細工に夢中になっている間……。一階のベースキャンプは無防備(ノーガード)でしたよ。おかげで、あなた方の整備キットをゆっくりと『点検』させていただきました」
織部は小瓶を軽く振った。
中には、琥珀色の液体が入っている。
色も粘度も、彼らが愛用している最高級のガンオイルと全く見分けがつかない。
「古いオイルを捨て、代わりにこれを入れておいたんです。『熱硬化性擬装潤滑剤(サーモ・ロック)』。……常温ではオイルと同じ潤滑性能を持ちますが、火薬の燃焼熱に反応して、瞬時に鋼鉄のように硬化する特殊ポリマーです」
それは、街のホームセンターには売っていない代物だ。
破壊工作や暗殺を専門とする、ごく一部の「プロ」しか知り得ない特殊機材。
「そんなものを可動部にたっぷり塗り込み、トリガーを引けばどうなるか。……結果は、手の中で自壊する金属の塊だ」
織部はスマホを取り出し、淡々と作業ログを入力した。
『メンテナンス剤:規格外(不純物)』
『動作:機関部閉鎖不良および異常圧力』
『結果:使用不能(全損)』
「貴様……何者だ……?」
リーダーは震える声で問うた。
罠を見抜く目。
心理誘導。
完全な気配遮断。
そして、この特殊な破壊工作。
この男は、自分たちよりも遥かに深く、暗い「こちらの世界」に精通している。
織部は答えず、天井の監視カメラ――その向こうにいるミスター・ルールに向かって、一礼した。
「今回の点検業務は終了です。……このビルは、あなた方が作った『処刑場』としては、少々欠陥が多すぎましたね」
カメラの向こうで、ミスター・ルールの息を呑む音が聞こえたようだった。
モニター越しに、ルールの驚愕の声が響く。
『……心理的攪乱。そして、敵の戦力を利用した自滅工作。……その手口、まさか』
ルールの声から、能面のような冷静さが消えていた。
彼は気づいたのだ。
この手際の良さが、ある伝説的な存在と重なることに。
『その特徴的な眼鏡と、病的なまでの完璧主義……。貴様、かつて世界の歴史と真実を管理する影の組織『パブリッシャー』で、不都合な真実を闇に葬り続けた伝説の『エディター(編集者)』……!?』
「編集者」、すなわち世界という原稿における絶対的な決定権者。
誤植(エラー)を見つけ次第、修正液ではなく「死」をもって削除する、冷酷無比な執行人。
織部は眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
その仕草は、かつて国家転覆レベルの陰謀さえも「編集」し、歴史の闇に葬ってきた男のそれだった。
が、彼は静かに首を振った。
「……人違いでしょう」
織部の声は、どこまでも平坦だった。
「そんな昔の名前は忘れました。今の私は、誤植を直すだけのしがない設備屋ですよ」
織部は背を向け、出口へと歩き出した。
その背中は、かつて世界を相手に暗躍した凄腕エージェントの影を帯びていたが、今の彼にあるのは「赤ペン一本」だけだった。
***
数分後。
サイレンの音と共に、数台のパトカーが倉庫ビルを取り囲んだ。
「動くな! 警察だ!」
突入したのは、警視庁捜査一課の刑事、真壁(まかべ)凛(りん)だ。
彼女はずっと追っていた。一連の不審死の裏に見え隠れする、この「マニュアル・キラー」の影を。
だが、倉庫の中はすでに静まり返っていた。
あるのは、崩落した床の底で呻く男たちと、右手を押さえて呆然としているリーダーの姿だけ。
「……遅かったか」
真壁は舌打ちをした。
またしても、彼は煙のように消えた。
現場には、無数の「偽の警告シール」が貼られたまま、風に揺れている。
それらはまるで、警察の捜査さえも嘲笑うかのような、悪意ある装飾だった。
「警部! これを見てください!」
部下の刑事が、出口のドアを指差した。
そこには、一枚の付箋が貼られていた。
特徴的な、几帳面すぎる赤文字。
真壁宛てのメッセージだ。
『真壁刑事へ』
『あなたの正義感は正しい。法律というマニュアルを守ろうとする姿勢には敬意を表します』
真壁は付箋を剥がし、続きを読んだ。
『だが――誤植が一つある』
「誤植……?」
真壁は眉をひそめた。
その下には、こう書き添えられていた。
『法は万能ではない。それが人を救えない時、誰かが余白に「正解」を書き足さなければならない』
それは、犯罪者の自己正当化か、あるいは法では裁けない悪に対する宣戦布告か。
真壁はそのメモを強く握りしめた。
「……ふざけないでよ。書き足すですって?」
真壁は唇を噛んだ。
「余白に書き足すのは、あなたじゃない。――裁くのも救うのも、私たちの仕事よ」
彼女は倉庫の外に出た。
夕日が、湾岸エリアを赤く染めようとしている。
どこまでも広がる空の下、あの男は今もどこかで、赤ペンを片手に世界を「修正」しているのだろうか。
「私は認めない。……いつか必ず、あなたを逮捕して、その歪んだ正義を『修正』してやる」
真壁は空を見上げ、誓うように呟いた。
風が吹き抜け、彼女の髪を揺らす。
世界にはまだ、数え切れないほどの誤植が溢れている。
そして、それを直すための赤ペンは、まだキャップを外されたままだ。
(全14話 完/第一部 完)
マニュアルキラー 早野 茂 @hayano_shigeru
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