第13話 疑心暗鬼の果て

嘘をつき続けることの最大の効果は、相手に信じさせることではない。  

相手の「判断基準」を破壊することにある。

日曜日の午前。  

旧湾岸物流センタービルの3階。  

かつての物流拠点だった広大なフロアは、異様な緊張感に包まれていた。

「クソッ! ここもだ! ここもフェイクだ!」

迷彩服を着た殺し屋の一人が、ドアに貼られた『有毒ガス充満:開放厳禁』のシールを軍用ナイフで剥ぎ取り、ドアを蹴破った。  

何も起きない。

ただの埃っぽい小部屋だ。

「……リーダー。あの眼鏡の男、完全に俺たちで遊んでやがる」

「ああ、分かっている。奴はシールで俺たちの足を止め、時間稼ぎをしているだけだ」

リーダーと呼ばれた男は、苛立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。  

この数十分、彼らは織部が貼った「警告」に翻弄され続けてきた。  

『高圧電流』『崩落危険』『アスベスト』。  

ありとあらゆる警告が表示されていたが、その全てが嘘だった。  

最初は慎重に検査していた彼らも、今や警告を見るたびに「またか」という怒りが湧くだけになっていた。

無線機から、ミスター・ルールの怒声が響く。

『何をしている! 相手は丸腰の整備員一人だぞ! さっさと包囲して始末しろ!』

「しかし、警告表示が……」

『ええい! そのビルの構造データは私が全て確認済みだと言っただろう! 図面上、そこには何の危険設備もない! すべての警告は無視して突っ込め!』

「……了解(コピー)。総員に通達。以後、一切の警告ラベルを無視する。最短ルートでターゲットを追い詰めろ」

リーダーは決断した。  

警察の到着も近い。

プロとしての慎重さを捨て、スピードで圧倒する。  

それが、織部が仕掛けた最大の「心理的誘導」だとも気づかずに。

彼らの脳内では、すでにルールが書き換わっていた。  

『警告がある場所=安全(ブラフ)』  

ならば、その逆は?  

彼らは無意識のうちにこう思い込んでいた。  

『警告がない場所=安全(ノーマル)』だと。


 ***


織部は、吹き抜けになっている4階のキャットウォークから、その様子を冷ややかに見下ろしていた。

「……条件付け、完了」

人間は、過度な「偽陽性(フォールス・ポジティブ)」を繰り返すと、警報そのものをノイズとして処理し始める。  

いわゆる「オオカミ少年効果」だ。  

今の彼らは、目の前に「地雷」と書いてあっても、平気で踏み抜くだろう。

織部は、手元のシールをポケットにしまった。  

もう、貼る必要はない。

この廃ビルは、解体に向けた準備工事が始まっていた。  

そのため、フロアの一部には、瓦礫を下の階へ落とすための「開口部(穴)」が開けられている場所がある。    

織部は、その「本物の穴」に貼られていた『開口部注意』の看板を剥がし、隠しておいた。

「さあ、案内しましょう。マニュアルのない世界へ」

織部はわざと足音を立て、鉄骨をレンチで叩いた。  

カーン、カーン。  高く澄んだ音が、静まり返った倉庫に響き渡る。

「いたぞ! 上だ!」

「逃がすな! 包囲しろ!」

殺し屋たちが一斉に動き出した。  

彼らは迷いなく走る。  

床に『頭上注意』と書かれていれば、わざと背筋を伸ばして通り、『足元注意』と書かれていれば、足場を確認すらせずに駆け抜けた。  

警告を無視することが、彼らにとっての「正解」になっていたからだ。

先頭集団が、3階の西側通路に殺到する。  

そこは、解体用の重機を入れるために内装が剥がされたエリアだ。  

床には、畳2枚分ほどの大きさの、灰色の養生シートが敷かれている。    

工事現場ではよく見る光景だ。

床を傷つけないための保護カバーに見える。  

シートの上に警告はない。

周囲に看板もない。  

つまり、彼らの基準では「安全なルート」だ。

リーダーが叫ぶ。

「突っ込め! 一気に距離を詰めるんだ!」

重装備の男たちが、勢いよくそのシートの上へ飛び込んだ。  

もし『開口部注意』の看板があれば、彼らは立ち止まっただろう。  

だが、そこには何もなかった。だから、止まらなかった。

――バサッ。

硬い靴音が響くはずだった。  

だが、聞こえたのは、布がめくれるような軽い音だけ。

「え?」

誰かが間抜けな声を上げた瞬間。

先頭を走っていた三人の体が、床に吸い込まれるように沈んだ。

「う、わあああああ!!?」

絶叫と共に、視界から兵士たちが消えた。  

養生シートの下には、床などなかった。  

そこは、下の階へ瓦礫を投下するためにコンクリート床を四角く切り抜いた、巨大な「落とし穴(ダメ穴)」だったのだ。

ドサッ、グシャッという生々しい音が、下の階から響いてきた。

「な、なんだ!? 何が起きた!?」

 後ろにいたリーダーが急ブレーキをかけ、縁(ふち)で立ち止まった。  

ライトで照らすと、めくれ上がったシートの下にぽっかりと暗闇が口を開けている。

「バカな……警告は……シールはなかったぞ!?」

リーダーは狼狽した。  

偽物の警告にはあれほど敏感に反応していたのに、本物の危機に対しては無防備すぎた。  

織部は「嘘の警告」をばら撒くことで、彼らから「警告のない危険」に対する想像力を奪ったのだ。

上階の闇の中から、織部の声が降ってきた。

「当然です。そこは『作業用の開口部』ですから」

織部の姿が、キャットウォークの柵越しに見えた。  

彼はまるで、欠陥工事を見つけた現場監督のように冷徹に見下ろしている。

「本来なら『転落注意』の看板があるはずですが……私が撤去(トル)しました。あなた方の上司は図面しか見ていないようですが、現場(リアル)では解体工事が始まっていたんですよ」

「き、貴様ァァァ!!」

リーダーは怒りに震え、アサルトライフルを構えた。  

部下を失った怒りと、弄ばれた屈辱。  

彼は引き金に指をかけ、織部に向けて乱射しようとした。

だが、彼は気づいていない。  

織部がこのビルに来て最初に行った「工作」は、シールの貼り付けや看板の撤去だけではないことを。  

彼らが拠点として荷物を置いていた一階で、彼らの武器そのものに、致命的な「誤植」を仕込んでいたことを。


(最終話へ続く)

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