第12話 迷宮の誤植
プロフェッショナルとは、臆病な生き物だ。
彼らは経験則に基づき、リスクを極限まで回避しようとする。
その習性こそが、今この瞬間において最大の「脆弱性(セキュリティホール)」となる。
午後一時三十分。
旧湾岸物流センタービルの地下。
防火シャッターの向こう側から、重厚な駆動音が響いた。
敵がシャッターを強制開放しているのだ。
織部は、その隙に換気ダクトの点検口をこじ開け、上階へと続く狭い通路へと身体を滑り込ませていた。
一階フロア。
織部は広大な倉庫の影に身を潜めながら、リュックから愛用の小型ラベルプリンターを取り出した。
敵は、組織が雇った精鋭部隊。
足音の少なさ、連携の取れた動き。
ただのチンピラではない。
軍隊経験のある傭兵クラスだ。
「……ミスター・ルール、あなたは一つ勘違いをしている」
織部は高速でキーボードを叩き始めた。
確かに、このビルの設備は「図面通り」に戻されたかもしれない。
スプリンクラーは作動せず、配線も安全だ。物理的なトラップは一つもない。
だが、人間は物理世界を見ているのではない。
脳内で処理された「情報」を見ているのだ。
「仕様書(ルール)がないなら、新しく記述(ペースト)すればいい」
織部は印刷された黄色と黒の警告シールを手に取ると、走り出した。
彼の武器はインクと粘着テープ。
それだけで、この安全な廃ビルを、即死級の地雷原に変えてみせる。
***
「ターゲットは二階へ移動した。包囲して追い込め」
「了解(ラジャー)」
リーダー格の男の指示を受け、三人の殺し屋が階段を駆け上がった。
彼らはタクティカルライトを銃身に装着し、慎重かつ迅速にクリアリングを行っていく。
彼らにとって、丸腰の整備員一人を始末するなど、赤子の手をひねるような任務のはずだった。
先頭の男が、二階の廊下へ足を踏み入れようとした時だ。
彼のタクティカルライトが、床に貼られた真新しいシールを照らし出した。
『DANGER:床板腐食・崩落危険』
『耐荷重制限:50kg未満』
男の足がピタリと止まった。
廃ビルだ。床が腐っていることは十分にあり得る。
しかも、自分たちは重装備だ。
もし踏み抜けば、一階まで転落し、最悪の場合は瓦礫に埋まる。
「……リーダー。ルート変更を要請する。この廊下は崩落の危険がある」
「何だと? そんな情報は聞いていないぞ」
「だが、警告表示がある。点検業者が貼ったものだ」
殺し屋たちはプロだ。
プロだからこそ、「現場の安全表示」を無視できない。
無視して事故に遭えば、作戦失敗(ミッション・フェイル)に直結するからだ。
その時、無線からミスター・ルールの冷たい声が響いた。
『騙されるな! そこを進め!』
「しかし、崩落の危険が……」
『馬鹿者! 私は昨日、このビルの構造図(ブループリント)と設備データを全て照合済みだ! そこは鉄筋コンクリートの耐荷重区画だぞ! 床が抜けるわけがない!』
ミスター・ルールは、モニター越しの安全圏から怒鳴った。
彼の目には「データ」しか見えていない。
何十年も放置されたコンクリートが、雨漏りと潮風でどれほど劣化しているかという「現場のリアル」は、彼の完璧な図面には載っていないのだ。
『そのシールは、奴が今さっき貼っただけの紙切れだ! 無視しろ! 警察の嗅ぎ回る音が近づいているんだぞ!』
「チッ……了解。進むぞ」
リーダーは渋々指示を出したが、部隊の進行速度は極端に落ちた。
司令室で安全に座っている人間が何を言おうと、現場で「死の警告」と対峙しているのは彼らなのだ。
万が一、その警告が「本物」だったら?
織部という男が、本当に危険な場所を見つけてマーキングしていたとしたら?
その疑念が、
恐怖となって彼らの足を縛り付ける。
別の通路では、ドアを開けようとした男が手を止めていた。
ドアノブの横に、現場の色彩コードを無視したような鮮烈な赤のシールが貼られている。
『WARNING:高圧電流漏電中』
『接触厳禁:感電死の恐れあり』
男は舌打ちをし、非接触型の検電器を取り出した。
反応はない。
だが、「今は流れていないだけ」かもしれない。
数千ボルトの電流が流れている可能性がある鉄のノブを、躊躇なく握れる人間などいない。
「……ドアが使えない。迂回する」
さらに別の場所では。
配管が張り巡らされた狭い通路で、こんなシールが彼らの行く手を阻んだ。
『CAUTION:石綿(アスベスト)飛散区域』
『濃度レベル5:要防護服』
殺し屋たちは顔を見合わせた。
銃弾は怖くないが、見えない発癌性物質は別だ。
彼らは無意識に呼吸を浅くし、そのエリアを避けて遠回りを始めた。
***
別室のモニターで様子を見ていたミスター・ルールは、机を拳で叩いた。
『ええい、臆病風に吹かれおって! 回路図ではそこは通電していない! アスベスト除去も完了している記録がある! 全部フェイクだと言っているだろう!』
しかし、現場の兵士たちの足は重い。
図面上の正解と、目の前の警告。
そのギャップが、彼らの判断能力を削り取っていく。
――ガガガッ!
遠くで、焦れた兵士が警告を無視してドアを蹴破る音がした。
何も起きない。
ただのドアだ。
「……やはりフェイクか。クソッ、舐めやがって!」
殺し屋たちの中に、怒りと安堵が広がった。
全部ハッタリだ。この男は口先だけで、実体は何もない詐欺師だ。
そう思い始めた瞬間こそが、織部の狙いだった。
三階のキャットウォーク。
暗闇の中で、織部は静かに彼らを見下ろしていた。
「……校正作業(キャリブレーション)、完了」
敵は学習した。
「警告シール=偽物」だと。
「このビルの表示はすべて嘘だ」という新しいルールを、彼ら自身に刷り込んだのだ。
織部は手元の残りのシールを見た。
ここまでは、ただの時間稼ぎ。
だが、次の一手は違う。
人間は、「嘘だ」と思い込んだ瞬間、目の前のリスクに対する警戒心がゼロになる。
いわゆる「正常性バイアス」の強制発動。
織部は最後の仕上げに取り掛かる。
本当に危険な場所(バグ)にだけは、何も貼らない。
あるいは――「安全」という嘘のシールを貼るために。
(第13話へ続く)
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