第10話 窒息する歴史

午後一時。  

堂本邸の地下にある特別書庫は、深海のような静寂に包まれていた。

執務机に向かう堂本玄は、上機嫌だった。  

赤ペンが走る。

気に入らない史実を塗り潰し、自分たちに都合の良い注釈を書き加える作業は、彼にとって至上の快楽だ。

「ふふ、……これでいい。これが『正史』だ」

堂本は独りごちた。  

不思議なことに、思考がうまくまとまらない。  

頭がぼんやりとし、まるで深い霧の中にいるような、奇妙な浮遊感に包まれていた。

彼は知らなかった。  

それが、低酸素脳症の初期症状であることを。  

部屋の酸素濃度はすでに10%を切っている。  

通常なら苦しくてのた打ち回るレベルだ。

だが、充満しているのが「窒素」である場合、人間の脳は酸欠を検知できない。  

息苦しさを感じるのは、血中の二酸化炭素濃度が上がった時だ。

窒素で置換された空間では、二酸化炭素は排出されるため、脳は「呼吸ができている」と錯覚したまま、酸欠状態に陥る。

脳が危険信号(アラート)を出すための回路そのものが、静かに遮断されていく。  

「沈黙の処刑」のようなものだ。

「……ん?」

堂本は、手元のゲラ刷りに違和感を覚えた。  

『愛国心』と書こうとした文字が、ミミズがのたうったような判読不能な線になっている。

「なんだ……手が、滑るな」

書き直そうとしたが、うまく力が入らない。  

自分の手ではないような感覚。赤ペンが指の間からスルリと抜け落ち、床に転がった。

拾わなければ。  

そう思ったが、体が椅子に張り付いたように重い。

視界が少しずつ狭くなっていく。

トンネルの中から外を見ているようだ。

「……疲れているのか? いや、そんなはずはない」

堂本は首を振った。  

この部屋の環境は完璧なはずだ。  

彼は霞む目で、壁の制御パネルを見た。

モニターには、鮮やかな緑色の文字が光っている。

『環境:最適(オプティマル)』

「そう、だ……。機械が、最適だと言っている……」

堂本は安心したように笑った。  

あの業者が設定した通り、ここは不純物のない、完璧な聖域なのだ。  

機械が「最適」と表示している以上、自分の体の不調は気のせいか、あるいはただの寝不足に違いない。

「……正しいのは、いつだって数字の方だ」

彼は、自らが作り上げた「権威への盲信」というシステムに、今度は自分自身が殺されようとしていた。  

モニターの裏側で、実測値が『0%』へ向けて限りなく落ち続けていることなど、知る由もない。

「少し……眠いな……」

堂本は机に突っ伏した。  

眠気は、脳の機能停止(シャットダウン)の合図だ。  

目の前には、修正液で白く塗り潰された歴史の教科書がある。

空白。  

何も無い世界。

堂本の意識もまた、その空白に吸い込まれるように消えていった。  

痛みも、恐怖もなく。  

ただ、自らが望んだ「不純物のない世界」の一部となって、思考が完全に途絶えた。


 ***


午後三時。  

定刻になっても出てこない主人を不審に思った秘書が、地下書庫の前に立った。  

防音扉の横にあるパネルは、鮮やかな緑色で『環境:最適(オプティマル)』と表示されている。

「最適……ということは、メンテナンスは終わったのか?」

通常、ガス放出中は厳重にロックがかかるはずだ。  

だが、表示はグリーン(安全色)で、エラーも出ていない。  

秘書は「空気が綺麗になったのだろう」と解釈し、入室ボタンを押した。

――プシューッ。

気圧調整の音がして、重厚な扉がスライドして開く。  

その瞬間、猛烈な風が室内から廊下へと吹き出した。  

陽圧管理された内部のガスが、一気に噴き出してきたのだ。

「うっ……?」

秘書は思わずよろめいた。  

臭いはない。

だが、肺の中の空気が吸い出されるような、奇妙な息苦しさを感じた。  

本能的な恐怖を感じ、彼はとっさに扉の枠を掴んで体を支え、顔だけを中に向けた。

「せ、先生! お時間です!」

返事はない。  

部屋の奥、執務机に突っ伏している堂本の姿が見えた。

「先生!?」

秘書は息を止め、決死の覚悟で数歩だけ踏み込み、主人の肩を揺すった。  

微動だにしない。  

覗き込んだその顔は、まるで電池が切れた人形のように、表情が抜け落ちていた。  

苦悶の色もなければ、安らぎもない。  

ただ、命だけが完全に消失していた。

「ひっ……!!」

秘書は恐怖と、強まるめまいとに襲われ、慌てて廊下へ這い出した。  

ゼェゼェと荒い息をつきながら、壁のモニターを見上げる。

『環境:最適(オプティマル)』

秘書は混乱した。  

機械は正常だと言っている。

環境は最適だと示している。  

なのに、なぜ先生は死んでいるのか?  

なぜ、こんなにも空気が「薄い」のか?

彼はまだ気づいていない。  

機械にとっての「最適」が、人間にとっての「死」に書き換えられていることに。


 ***


堂本邸から数ブロック離れたカフェのテラス席。  

織部は、タブレット端末でニュースサイトを更新していた。  

まだ速報は出ていないが、時間の問題だろう。

堂本の死因は「酸欠死」と診断されるはずだ。  

だが、殺人の線で捜査が進むことはないだろう。

現場の状況証拠は、すべて堂本自身の「過失」を示している。  

書庫への立ち入りを禁じられていたのに、自ら鍵をかけて籠もったこと。  

そして何より、彼自身の筆跡で残されたメモには、「設定を最強にしろ」という業者への指示書きが残っているはずだ。

「……ユーザーの運用ミス、あるいは自殺に近い事故」

織部は作業記録(ログ)に淡々と入力した。

『充填ガス:窒素ガス』  

『酸素濃度:0%』  

『結果:保存完了』

「おめでとうございます、先生」

織部は冷ややかな皮肉を呟いた。

「あなたは望み通り、カビも虫も湧かない『無菌状態』になれましたよ。あなた自身が、歴史の遺物(アーカイブ)としてね」

堂本は歴史を自分の都合の良いように書き換えようとした。  

だが、物理法則という絶対的なルールブックの前では、権力者の赤ペンなど無力だ。  

酸素がなければ、人は死ぬ。  

そのたった一行の定義さえ、彼は読むことができなかった。

織部はタブレットを閉じ、空を見上げた。  

金曜日の夕暮れが、街を赤く染めようとしている。

「今週の業務(タスク)、すべて完了」

月曜のブラック企業社長から始まり、火曜の建設業者、水曜の自動車メーカー、木曜の病院長、そして金曜の政治家。  

五人のターゲットは全員、自らの傲慢さが招いた「仕様バグ」によって排除された。

織部は鞄を持ち立ち上がった。  

どこか遠くで、子供たちの笑い声が聞こえる。  

この世界には、まだまだ修正すべき「誤植」が溢れている。

だが、今日は週末だ。  

校正者にも、休息は必要だろう。

織部は人混みの中に紛れ、静かに姿を消した。  

その背中には、誰にも読めない「正義」というラベルが貼られているようだった。


(第10話 完)

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