第9話 書き換えられた正解
歴史は勝者が作るものではない。それを「校正」する者が作るのだ。
金曜日の午前。
織部悟は、世田谷の閑静な住宅街に構えられた要塞のような大豪邸、民自党の重鎮・堂本玄(どうもと げん)の私邸を訪れていた。
堂本は元文部科学大臣であり、現在は党の教育調査会長を務める「教育界のドン」だ。
だが、その実態は利権の塊だ。
特定の出版社や予備校と癒着し、入試制度を頻繁に変更しては、受験生と親から金を搾り取るシステムを作り上げている。
さらに、彼は現在、歴史教科書の検定基準に介入し、自分たちに都合の悪い史実を「なかったこと」に書き換えようと画策していた。
その強引な圧力に抗議した歴史学者が、先週、謎の自殺を遂げている。
「……歪んだ文字だ」
織部は、門柱に掲げられた『堂本』という表札を見て目を細めた。
筆文字の勢いはあるが、バランスが崩れている。他者を圧迫するだけの、品のない書体だ。
織部はインターホンを押した。
今日の彼の肩書きは、「重要文化財・書庫設備の保守点検業者」だ。
***
「先生は今、地下の『特別書庫』におられます。入室の際は、余計な私語を慎むように」
秘書に案内され、織部は地下室へと降りた。
重厚な防音扉の奥に、その空間はあった。
広さ二十畳ほどの完全密閉された書庫。
壁一面の本棚には、国宝級の古文書や、まだ世に出ていない「黒塗り前」の公文書がずらりと並んでいる。
「遅いぞ! 私の時間は国家予算よりも重いんだ!」
部屋の中央にある執務机で、老人が怒鳴り声を上げた。
堂本玄だ。
七十代後半。
白髪に和服姿。
その眼光は、長年政界で敵を蹴落としてきた猛禽類のように鋭い。
「申し訳ございません。設備の更新プログラムの確認に時間を要しまして」
織部は静かに頭を下げた。
「フン。まあいい。……おい、この部屋、なんだか湿気っぽくないか? 貴重な資料にカビでも生えたらどう責任を取るつもりだ」
堂本は神経質そうに、机の上の古文書をハンカチで拭った。
彼は極度の潔癖症であり、人間不信だ。
重要な改竄(かいざん)作業を行う時は、誰も入れずにこの地下金庫(シェルター)に籠もるのが習慣になっている。
「確認いたします。……湿度計は正常ですが、空気の循環が滞っている可能性がありますね」
織部は周囲を見渡してから、眼鏡の位置を直し、淡々と告げた。
「ですが先生。僭越ながら申し上げますが、本来、この『特別書庫』は文化財保護のための完全密閉区画です。人間が長時間滞在して作業するようには設計されておりません」
織部の言葉は正論だった。
ここは「物を保存する」ための空間であり、「人が生きる」ための空間ではない。
換気設備も最低限しかなく、万が一の閉じ込め事故を防ぐため、本来は原則立ち入り禁止のエリアだ。
わざわざこんな場所を執務室にするなど、リスク管理の観点から言えば愚の骨頂だ。
だが、堂本は不愉快そうに鼻を鳴らした。
「だからどうした? 地上の執務室は盗聴の危険があるし、何より空気が汚い。愚かな有権者どもの吐く息が混じっているようで反吐が出るんだよ」
堂本は歪んだ笑みを浮かべた。
「ここはいいぞ。不純物がない。私だけの聖域だ。……ルールなど、私が書き換えればそれが正解になる。私の健康より優先される規則など、この国には存在せんよ」
(……なるほど。自身の生物的な限界さえも、権力でねじ伏せられるとお考えか)
織部は内心で冷ややかに納得した。
この男は、自分を人間ではなく、保護されるべき重要文化財か何かだと勘違いしている。
ならば、その望み通り「物」として扱ってやるのが礼儀だろう。
「左様でございますか。ご無礼いたしました」
織部は一礼し、壁に設置された巨大な制御パネルへと歩み寄った。
この部屋には、特殊な防災システムが導入されている。 『
窒素ガス消火設備』だ。
万が一の火災時、スプリンクラーで水を撒けば、貴重な書類は台無しになる。
だから、この部屋では水を使わない。
代わりに、空気中の酸素を追い出し、不活性ガスである「窒素」を充満させることで、火を窒息させて消すのだ。
さらにこのシステムには、害虫やカビを防ぐための『燻蒸(くんじょう)モード』も搭載されている。
長時間、低酸素状態を維持することで、紙を食う虫を殺す機能だ。
「先生。設備のメンテナンスとして、一度空気を入れ替える設定(キャリブレーション)を行います。少し機械音がしますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、構わん。私はこの『修正案』を仕上げなきゃならんからな。作業が終わったら勝手に出て行け。……ただし、設定は『最強』にしておけよ」
堂本は赤ペンを握りしめ、教科書のゲラ刷りに次々と×印をつけていた。
『敗戦』『責任』……。
彼にとって不都合な記述が、次々と赤線で塗り潰されていく。
「最強、ですか」
「そうだ。カビも、虫も、不純物は一匹残らず排除しろ。この部屋は、私の『正解』を守る聖域なんだ」
堂本は狂気じみた目で笑った。
歴史を殺し、学者を殺し、次は虫を殺すか。
自分以外のすべてを「不純物」と呼ぶその傲慢さ。
「承知いたしました。では、安全装置(タイマー)も解除し、手動で戻さない限りその状態が継続するように設定します」
織部の眼鏡が冷たく光った。
本人が望んだのだ。
最強の保存環境を。
それが、人間にとっては「死の世界」であることを承知の上で。
彼は制御パネルのカバーを開け、メンテナンス用のタッチパネルを操作した。
織部が注目したのは、『酸素濃度監視モニター』の設定だ。
通常、この部屋の酸素濃度は21%(通常大気)に保たれている。
窒素ガスが放出され、濃度が18%を切ると「酸欠警報」が鳴り、10%を切れば人間は数分で意識を失い、死に至る。
織部は、モニターの「表示定義」を書き換えた。
本来、機械にとっての「最適(オプティマル)」な保存環境とは、酸素ゼロの状態だ。
人間にとっては「死」だが、書類にとっては「永遠」だ。
織部は設定画面で、ターゲット数値を変更した。
【変更前】 ターゲット酸素濃度:21%(有人モード) 表示:『正常(安全)』
【変更後】 ターゲット酸素濃度: 0%(殺虫・保存モード) 表示:『環境:最適(オプティマル)』
そして、警報アラームのスピーカー配線を切り、代わりに「静音モード」のランプが点灯するように細工を施した。
「設定、完了しました」
織部はパネルを閉じ、堂本に向き直った。
「先生。書庫の環境維持システムを『最適化モード』に切り替えました。これで、カビも虫も、あらゆる有機物は活動できなくなります」
「ほう、『最適』か。いい響きだ」
堂本はモニターを見た。
そこには、織部が設定した通り、緑色の文字で『環境:最適』と表示されている。
彼は満足げに頷き、再び書き換え作業に没頭し始めた。
「では、私はこれで失礼します。……どうぞ、誰にも邪魔されない『修正』の時間をお過ごしください」
「ああ。出て行く時は扉をしっかり閉めろよ。外の汚れた空気を一ミリも入れるな」
堂本の言葉に従い、織部は分厚い防音扉を閉め、外からロックを掛けた。
プシューッ……。
微かな音と共に、部屋の四隅にあるノズルから、無色無臭の窒素ガスが放出され始めた。
窒素は「沈黙の殺し屋」だ。
二酸化炭素と違い、吸い込んでも息苦しさを感じない。
人間は、酸素が減っていることに気づかないまま、ただ静かに眠るように、その機能を停止する。
織部は扉の前の廊下で、腕時計を見た。
密閉空間での酸欠。
堂本が「正解」だと思っているその空気は、刻一刻と、彼自身を過去の遺物へと変えていく。
(第10話へ続く)
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