第8話 燃えるような美学

午後一時。  

『鏡メディカルセンター』の最上階にある特別サロンは、人工的な静寂に包まれていた。

流線型の高気圧酸素カプセルの中で、院長の鏡は恍惚とした表情を浮かべていた。  

気圧は2.0気圧まで上昇。  

室内は酸素富化空気――医療用として許容される上限ギリギリまで“濃く”調整されていた。

「……素晴らしい。これだ、この濃さだ」

鏡は深く息を吸い込んだ。  

肺の奥まで染み渡る酸素。

そして、加湿タンクから漂ってくるラベンダーの芳醇な香り。  

本来なら無機質な医療機器の中が、まるで高級スパのような香りに満たされている。

「あの業者、なかなか良い仕事をするじゃないか」

鏡は閉じた目の裏で、織部の仕事を評価していた。  

メーカーの無粋な警告など無視して正解だった。  

自分の命令通りに仕様を書き換えさせれば、世界はこんなにも快適になる。  

金と権力があれば、物理法則さえも従わせることができるのだ。

鏡は満足げに寝返りを打った。  

その時だ。  

彼が持ち込んでいた化学繊維のブランケットが、乾燥したカプセル内のマットと擦れ合った。

――パチッ。

指先に、冬場によくある静電気の痛みが走った。  

通常の大気中であれば、ただの不快な「パチッ」で終わる現象だ。  

だが、ここは違う。  

ここは「高濃度酸素」が充満し、さらに気化した「アロマオイル(可燃性ガス)」が漂う、着火点ギリギリの火薬庫だ。

その極小の火花(スパーク)は、この閉鎖空間において、原爆の信管に等しい意味を持っていた。

ボッ!!

爆発音ではない。空気が瞬時に膨張する、重く低い衝撃音。  

鏡が目を開けた瞬間、視界のすべてが「白」に染まっていた。

「あ、が……!?」

熱い、という感覚よりも先に、強烈な光が網膜を焼いた。  

『フラッシュ・ファイア(瞬発火災)』。  

高濃度酸素下では、物は燃えるのではない。

「爆発」するのだ。    

鏡の髪の毛、産毛、そしてたっぷり染み込ませたアロマオイルの成分が、連鎖的に反応した。  

火は一瞬で全身を包み込んだ。

「ぎゃあああああああ!!」

カプセル内が紅蓮の炎で満たされる。  

鏡は半狂乱で暴れた。  

逃げなければ。出なければ。  

彼は内側からハッチを叩き、ハンドルを回そうとした。

だが、開かない。    

当然だ。高気圧カプセルは、内部の気圧が外部より高い。

その圧力差によって、ドアは内側から強力に押し付けられている。  

「減圧」の工程を経て、気圧を外と同じにしない限り、人間の力で開けることは物理的に不可能なのだ。

「あけろ! あけろおおお!!」

鏡は燃え盛る手で強化ガラスを叩いた。  

外の世界が見える。  

優雅な調度品、美しい絵画。  

だが、誰もいない。

防音設計のサロンの中で、彼の絶叫は誰にも届かない。

酸素供給ノズルからは、皮肉なことに、火の勢いをさらに強めるための「新鮮な酸素」が送り込まれ続けている。  

鏡自身が「もっと濃くしろ」と命じた、特濃の助燃剤だ。

自分の欲望で満たした空間が、自分を焼き尽くす焼却炉へと変わる。  

鏡の喉から、声にならない音が漏れた。  

それは肺の中の酸素が燃え尽きる、最後の音だった。


 ***


数十分後。  

異変を知らせるアラームで駆けつけた看護師たちは、サロンのドアを開けた瞬間、悲鳴を上げて腰を抜かした。

部屋の中央。  

酸素カプセルの分厚いガラスの向こう側は、真っ黒に煤(すす)けていた。  

その中に、炭のように黒く固まった「何か」が転がっている。

火はすでに消えていた。  

燃えるものが何もなくなったからだ。  

カプセルは完全な密閉空間。

火災の煙すら外に漏らさず、院長だけを静かに、そして完全に処理(デリート)していた。


 ***


病院から少し離れた公園のベンチ。  

織部は、遠くから聞こえてくる消防車のサイレンを聞きながら、缶コーヒーを開けた。

現場検証が行われれば、カプセル内からアロマオイルの成分が検出されるだろう。  

だが、タンクの表面に貼られた織部の「偽装シール」は、火災の熱で跡形もなく溶けているはずだ。

残るのは、「院長が勝手にアロマオイルを持ち込み、事故死した」という事実だけ。

織部はスマホを取り出し、自身の作業記録(ログ)に入力した。

『反応物質:高濃度酸素+揮発性油脂』  

『着火源:静電気』  

『結果:全焼』

「……化学反応(プロセス)に、情状酌量の余地はありません」

織部は冷ややかに呟いた。  

鏡は、自らの命を使って「酸化」という現象を証明したに過ぎない。  

患者から奪った酸素は、彼自身の身を焼くために使われた。  

因果応報というにはあまりにも科学的で、残酷な結末だ。

織部は缶コーヒーを飲み干し、ゴミ箱に捨てた。  

分類は「燃えないゴミ」。  

だが、人間の欲望はよく燃える。

「さて……今週最後の仕事だ」

織部は立ち上がり、ジャケットの襟を正した。  

明日は金曜日。  

この国の教育を歪め、若者の未来を奪う「大物政治家」への家庭教師が待っている。  

彼には、教科書には載っていない「ルールの書き換え方」を教える必要があるだろう。


(第8話 完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る