第7話 空気の読めない医者

命の重さは平等ではない。

少なくとも、この病院の財務諸表においては。

木曜日の午前。織部悟は、都内屈指の高級私立病院『鏡(かがみ)メディカルセンター』のロビーに立っていた。  

大理石の床、ホテルのようなコンシェルジュ、壁に飾られた有名画家の絵画。  

ここは病を治す場所というより、富裕層が「健康」という商品を買いに来るサロンだ。

織部の視線が、受付横に掲げられた病院の理念プレートに止まる。

『Life is Quality(人生とは、質である)』

Equality(平等)ではない。Quality(質)。

QOL(生活の質)を重視すると言えば聞こえはいいが、織部には「金のない人間に生きる価値はない」という選民思想の表れに見えた。

「……誤植ではないが、醜悪なフォントだ」

織部は小さく吐き捨てると、通用口へと向かった。  

今日の彼の肩書きは、「高気圧酸素カプセルの定期メンテナンス業者」だ。


 ***


「遅いよ。君、酸素の値段が今いくらか知ってるのか?」

最上階にある院長室兼プライベートサロン。  

バスローブ姿でワイングラスを揺らしている男が、この病院の理事長、鏡(かがみ)だ。  

六十歳手前だが、美容医療の限りを尽くした肌は不自然に張りつめ、蝋人形のような光沢を放っている。

「申し訳ございません。ご要望の『濃度上げ』に必要な、特殊なバルブの調達に時間を要しまして」

織部はもっともらしく頭を下げた。  

部屋の中央には、宇宙船のような流線型のマシンが鎮座している。  

最新鋭の『高気圧酸素カプセル』だ。  

カプセル内の気圧を高め、高濃度の酸素を吸入することで、疲労回復やアンチエイジングに劇的な効果があるとされる、富裕層の玩具(おもちゃ)だ。

「調達? フン、まあいい。とにかく、もっと『濃く』しろ。最近、効きが悪い」

鏡は不満げにカプセルを蹴った。

「私の体は特別なんだ。一般人向けの安全基準なんてどうでもいい。酸素濃度をもっと上げろ。それと……この臭いだ」

鏡は鼻をつまんだ。

「消毒液の臭いがする。不快だ。私はリラックスするためにここに入ってるんだぞ。アロマだ。ラベンダーの香りを充満させろ」

織部の眉が、眼鏡の奥でわずかに動いた。  

酸素と、アロマオイル。  

それは、化学の初歩を知る者なら、絶対に混ぜてはいけない組み合わせだ。

「院長。……申し上げにくいのですが、高濃度の酸素下において、油脂類の使用は厳禁です」

織部は淡々と事実を告げた。  

酸素そのものは燃えないが、燃焼を激しく助ける支燃性ガスだ。  

特に高圧酸素の中では、通常なら燃えにくい油でさえ、わずかな熱や静電気で発火し、爆発的な燃焼(フラッシュ・ファイア)を引き起こす危険がある。  

アロマオイルなど、爆薬を撒くようなものだ。

実際、カプセルの吸気口には、メーカーの警告シールが貼られている。

『警告:油脂厳禁。アロマオイル、整髪料、化粧品などを持ち込まないでください。発火の恐れがあります』

「ハッ! これだからマニュアル馬鹿は困る」

鏡はあざ笑い、引き出しから小瓶を取り出して投げ渡した。

高級な精油(エッセンシャルオイル)だ。

「それは安物の機械の話だろう? この最新型は違う。それに、私はこれまで何度も隠れて持ち込んでいるが、一度も燃えたことなどない。メーカーが責任逃れで大袈裟に書いているだけだ」

生存者バイアス。  

たまたま運が良かっただけの経験則を、鏡は「真実」だと信じ込んでいる。

「それにだ。……最近、一般病棟の植物状態の老人たちだがね。カルテ上は『高濃度酸素治療』を行っているとして国に請求しているが、実際には生命維持ギリギリの濃度しか流していないんだ」

鏡は自慢げに声を潜めた。

「意識のない人間に、上等な酸素など勿体ないだろう? その浮いた莫大な『差額』で、このサロンの設備を強化したんだ。これこそ『トリアージ(命の選別)』だよ。賢い経営判断だ」

織部は、投げ渡されたアロマオイルの小瓶を握りしめた。  

この男は、診療報酬を不正に搾取し、患者から奪った酸素(いのち)で、自分の若さを買っている。  その傲慢さが、科学のルールさえも捻じ曲げられると思っているのだ。

(……処置(オペ)が必要ですね)

織部は表情を消し、静かに頷いた。

「承知いたしました。院長がそこまで仰るのであれば、仕様を変更しましょう」

「最初からそう言えばいいんだ。ほら、さっさとその見苦しい『警告シール』を剥がせ。リラックスの邪魔だ」

鏡はカプセルの吸気口を指差した。  

そこは、カプセル内に酸素を送る際、加湿用の水を入れるタンクの入り口だ。

本来は精製水しか入れてはいけない。

「では、ご希望通りに書き換えます」

織部は鞄から商売道具を取り出した。  

彼が作るのは、鏡の欲望を肯定し、科学的事実を覆い隠すための「新しい仕様書(ラベル)」だ。

織部はパソコンを操作し、吸気口のサイズにぴったり合うシールを作成した。  

フォントは、この病院の理念プレートと同じ、優雅で高級感のある明朝体。

【変更前】  

『加湿用タンク給水口』  

『警告:水以外は入れないでください。油脂類は発火の原因となります』

【変更後】  

『アロマ/加湿リザーバー』  

『Recommended:お好みのオイルを数滴垂らして、極上のリラックス空間へ』

織部は、警告文をきれいに削除(トル)した。  

代わりに、「推奨(レコメンド)」という甘い言葉を添える。  

そのシールの下には、致死的な化学反応のトリガーが隠されているとも知らずに。

「貼り替え、完了しました」

織部は既存の警告シールの上に、作成したシールを丁寧に重ねて貼った。  

一分の隙間もなく。まるで最初からそういう仕様であったかのように。

「ほう! これだよ。高級感がまるで違う」

鏡は満足げにシールを撫でた。  

そして、織部に渡したアロマオイルを奪い取ると、蓋を開け、タンクの中にドボドボと注ぎ込んだ。

「数滴なんてケチなことは言わん。たっぷりとな」

油が、タンクの中に吸い込まれていく。  

これで準備は整った。  

あとはカプセルを密閉し、高圧の酸素を送り込むだけだ。

「では、私はこれで失礼します。……どうぞ、空気の読めない極上の時間をお過ごしください」

「ああ。出ていく時は静かにな」

鏡はバスローブを脱ぎ捨て、全裸になってカプセルへと潜り込んだ。  

織部は深く一礼し、部屋を後にした。

科学に、忖度(そんたく)はない。  

酸素と油が出会えば、条件が揃った瞬間に、必ず「結果」を出す。    

鏡がこれから吸うのは、若返りの空気ではない。  

自らの欲望が着火剤となる、燃えるような最期の息だ。


(第8話へ続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る