第6話 走り出した暴走
午後二時。横浜の港湾地区にある、広大な私有地。
『ゼニス・オートモティブ』が所有するテストコースには、海風が吹き荒れていた。
鉛色の海を背に、銀色に輝くコンセプトカー『アイギス』が、音もなく滑るように停車した。
重厚なドアが開き、国交省の幹部が降りてくる。
「素晴らしい。まるで氷の上を滑っているようだ。これなら、規制緩和も前向きに検討できるでしょう」
「ハハハ、ありがとうございます。安全性と快適性の両立こそが、我が社の使命ですから」
運転席(といっても座っていただけだが)から降りた葛城は、揉み手をして役人を見送った。
デモ走行は完璧だった。
事前に障害物を撤去し、プログラムされたルートを走らせただけなのだから当然だ。
役人の黒塗りの車が去っていくのを見届けると、葛城はふんと鼻を鳴らし、再び『アイギス』に乗り込んだ。
「さて……ガレージに戻すか」
葛城はシートに深々と体を沈め、リラックスした。
自動運転モードは継続中だ。
あとは車が勝手に、岸壁沿いのルートを通って倉庫へ向かうはずだった。
車が走り出す。
だが、AIが選択したルートは、葛城の予想とは違っていた。
倉庫への近道として、海沿いの旧道を選んだのだ。
そこは先月までメインルートだった場所だが、今は拡張工事のために動線が変更され、「行き止まり」になっている。その先はすぐ海だ。
だが、この車両に搭載された地図データは更新されていなかった。
AIにとって、そこはまだ「走行可能な道路」として認識されていた。
「……おい?」
葛城は異変に気づいた。
車の行く手には、通行止めを示す黄色い工事用バリケードが置かれている。
その向こうには、鉛色の海が広がっているだけだ。
「おい、どこへ行く! そこは行き止まりだ!」
葛城は叫んだ。
通常なら、障害物センサーがバリケードを検知して停車するはずだ。
だが、葛城は「乗り心地優先」のためにセンサー感度を下げ、「小さな障害物は無視して走行(ハンドリング回避)しろ」と設定させていた。
さらに悪いことに、『アイギス』は戦車のように頑丈で重い。
AIは簡易的なバリケードを「走行に支障のない、風で飛んできたゴミ」程度の障害物と判断した。
『センサー判定:軽量物。回避:不要。速度:維持。』
――バキバキッ!
嫌な破壊音が響いた。
『アイギス』は減速することなく、バリケードを粉々に粉砕して突き進んだ。
強固なボディには傷一つ付かない。皮肉にも、その「強さ」があだとなった。
「うわぁぁっ!?」
物理的な障壁が消え、目の前には海だけが迫る。
車は止まらない。
地図上では、まだ道が続いているからだ。
岸壁の縁(へり)まで、あと数メートル。
「くそっ、止まれ! ブレーキだ!」
葛城はタッチパネルを叩こうとした。
だが、焦りで指が震え、メニュー画面が開けない。
恐怖が思考を塗り潰していく。
本能が警鐘を鳴らす。
止まれ。止まれ。止まれ。
言葉にすれば止まるはずだ。
自分はそう設定させたはずだ。
葛城の脳裏から、「裏コード」の記憶が吹き飛んだ。
「ストップと言えば加速して逃げる」という、複雑なひねくれたロジックなど、死の恐怖の前では塵に等しい。
人間は、迫りくる危機に対して「加速しろ」とは叫ばない。
ただ、否定の言葉を叫ぶだけだ。
「止まれぇぇっ!! ストップだ!!」
葛城は絶叫した。
その声は、マイクを通じてクリアにAIへ届いた。
『音声コマンドを受理:ストップ』
AIは忠実だった。
登録された辞書データを参照し、その言葉に紐付けられた機能を、コンマ1秒の遅延もなく実行した。
画面には、葛城自身が偽装を命じたテキストが表示される。
『実行:緊急ブレーキ』
葛城の顔に、一瞬だけ安堵の色が浮かんだ。
ブレーキがかかる。助かった、と。
だが、次の瞬間。
彼の背中が、シートに乱暴に叩きつけられた。
――グォォォォォォッ!!
ブレーキではない。
600馬力のモーターが咆哮を上げ、タイヤが白煙を上げて路面を掻いた。
障害物無視。
リミッター解除。
緊急突破(フル加速)。
「な、あ――!?」
葛城の悲鳴は、G(重力加速度)によって喉の奥に押し込められた。
車は砲弾のように加速し、岸壁の縁を蹴った。
美しい放物線を描き、銀色の車体が空を飛ぶ。
まるで、光り輝く海へダイブするかのように。
ドッパァァァン!!
巨大な水柱が上がった。
数秒の浮遊感の後、数トンの鉄塊は、その重さゆえに凄まじい速度で海中へと沈んでいった。
水圧でドアは開かない。
防弾ガラスは割れない。
完全な密室。
皮肉なことに、葛城が自慢していた「最強の防御力(アイギス)」が、今度は彼を外界から隔絶し、確実に溺死させるための「最強の牢獄」となっていた。
海面に、ブクブクと泡だけが浮かんで消えた。
***
岸壁から少し離れた倉庫の屋根の下。
織部は、双眼鏡を下ろしながら、静かに息を吐いた。
葛城は、最期に何を叫んだのだろうか。
おそらく「ストップ」だろう。
誰だってそうする。
目の前に崖があれば、止まれと叫ぶ。
だが、彼は忘れていたのだ。
自分が他人を信用せず、言葉の意味をねじ曲げたことを。
そして、「表示を誤魔化せ」と自ら命じたことを。
「……ヒューマンエラーですね」
織部は淡々と呟いた。
システムは正常に動作した。
音声認識も完璧。加速性能も仕様通り。
ただ、ユーザーが「止まりたい」と思いながら「進め」というコマンドを入力しただけだ。
海面は、何事もなかったかのように静まり返っている。
車内のログはどうなるか。
葛城自身が「クラウドを切断しろ」と命じ、「ローカル保存も切れ」と言った。
あの車は、何の記録も残さずに海の底へ沈んだブラックボックスだ。
残るのは、「所有者が自らアクセル全開で海に突っ込んだ」という事実と、バリケードを突き破った痕跡だけ。
自殺か、操作ミスか。
真相を知る者は、もういない。
「デバッグ完了」
織部は鞄を持ち直した。
次は木曜日。
命の選別を行う、傲慢な病院長が待っている。
彼には、空気(酸素)の読み方を教えてやる必要があるだろう。
織部は背を向け、風の強い港を後にした。
(第6話 完)
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