第3話 自然を舐めた代償

大自然の中にも、誤植はある。

火曜日の午前。  

織部悟は、県境の山間部にオープンしたばかりのグランピング施設『グラン・テラス・ヒルズ』の敷地内を歩いていた。  

急ごしらえのウッドデッキに、見栄えだけを気にした海外製のテント。  

織部の視線は、遊歩道の入り口に立てられたアンティーク調の看板に釘付けになっていた。

『Forest Bhat ~森林浴で癒やしを~』

Bath(入浴・浴びる)ではない。Bhat(バット)。  

インドの姓か、あるいは通貨単位か。

どちらにせよ「森林浴」にはならない。

「……気持ちが悪い」

織部はこめかみを指で押し、頭痛を堪えるように視線を切った。  

この施設には神など宿っていない。  

あるのは、山の形を変えるほどの巨大な欲望と、それを隠す薄っぺらな看板だけだ。

織部は作業着の襟を正すと、管理棟へと向かった。  

今日の彼の肩書きは、「電気設備の保守点検業者」だ。


 ***


「あー、そこそこ。その辺の配電盤、適当に見といてよ」

管理棟のテラスで、朝から安酒を煽っている男がいた。  

この施設のオーナー、九条(くじょう)だ。  

四十代半ば。  

派手なネックレスに、開いたシャツの胸元から覗く刺青。  

かつてこの一帯で幅を利かせていた半グレ集団の元幹部で、今は実業家気取りの男だ。

「しかし、役所の連中もしつこいねえ。 『ここは宅地造成等工事規制区域に指定された』だの、『法に基づき是正命令を出す可能性がある』だの」

九条はスマホで誰かと通話しながら、下卑た笑い声を上げていた。

「心配すんなって。……ああ、そうだ。確かに法律上は、過去の盛土だろうが、今の基準に合わなきゃ直させる命令が出せることになってる。所有者の保全義務ってやつだな」

九条はニヤリと笑い、グラスの氷を鳴らした。

「だがな、それには『明確な危険性』を役所側が立証しなきゃならねえ。だから俺は言ってやったんだ。『危険だって言うなら、そっちの金でボーリング調査でも何でもして、科学的に証明してみせろ。話はそれからだ』ってな」

通話を終えた九条が、足元の地面に唾を吐く。  

織部は配電盤をチェックするふりをしながら、その会話を聞いていた。

この男の正体は、キャンプ場経営者ではない。

「残土ビジネス」で荒稼ぎした過去を持つ悪党だ。  

かつて、建設現場から出た廃棄物混じりの残土(ガラ)を、二束三文で引き受け、この谷に不法投棄して埋め立てた。  

本来なら擁壁(ようへき)工事が必要な急斜面に、ただ土を盛っただけ。  

いわゆる「殺人盛土」だ。

法改正により、危険な盛土に対しては、過去の盛土であっても行政は是正命令を出せるようになった。

従わなければ罰則もある。  

だが、九条は法の盲点を突いている。  

行政が強制的な命令を出すには、災害発生の蓋然性を証明しなければならない。

九条はその「立証責任」を行政に押し付け、のらりくらりと時間を稼いでいるのだ。  

調査や手続きに数年かかる間に、大雨が降ればどうなるか。  

下の集落はひとたまりもない。

(……法の運用コストを盾にするバグか)

織部は内心で冷ややかに断定した。  

法律が手続きに縛られている間に、物理的な崩壊は刻一刻と迫っている。  

ならば、仕様外の致命的なエラーとして、処理(デリート)するしかない。

「おい、電気屋。聞いてんのか?」

「はい。電気柵の電源パネル内の表示のご依頼ですね」

「ああ。最近、嗅ぎ回る地元の連中やマスコミが多くてな。イノシシ除けってことにしてるが、人間が触っても二度と来たくなくなるようにしてあるんだがな」

九条は残忍な目で笑った。  

織部は、施設の裏手に設置された電気柵の制御ボックスへと向かった。  

そこには、九条が自慢げに特注させたという、禍々しい改造装置が設置されていた。

織部はカバーを開け、配線を見て目を細めた。

「……なるほど。分岐(バイパス)させているのか」

通常の獣避けの電気柵は、パルス発生器を通して、一瞬だけ「バチッ」という衝撃を与える仕組みだ。  

だが、この装置の裏側には、パルス発生器を迂回する隠し配線が追加されていた。  

スイッチを『B』に入れると、家庭用100V電源が、パルス回路を通らずに昇圧トランスへ直結され、高電圧が垂れ流しになる仕組みだ。

これに触れれば、筋肉が硬直し、手を離すことすらできずに電流が流れ続ける。  

かつて実際に死亡事故を起こし、厳しく禁じられた違法改造だ。  

九条は、ここぞという時に「殺せる」ように、この回路を組ませている。

蓋の裏には、九条が手書きで書かせたであろう、乱暴な設定表が貼られていた。

『A:パルス(通常・痛い)』

『B:直結(最強・死ぬ)』 ※普段はB。

「……野蛮な仕様書だ」

今度、この電気柵を使って資金調達のパフォーマンスを考えているらしい。

この「死ぬ」という表示を見られるわけにはいかないのだろう。

それっぽく、適正な装置であるという見栄えが必要なのだ。

織部は鞄から、いつもの商売道具を取り出した。  

今回使うのは、色による錯覚や、過剰な説明書きではない。  

もっと単純で、しかし「数字」と「金」にしか興味のない人間ほど見落としがちな「小さな点」だ。

織部はパソコンを操作し、新しい仕様シールを作成していく。  

フォント、サイズ。  

すべて現物と同じような雰囲気で、いかにもメーカー純正の「電圧表示ラベル」に見えるように仕上げる。  

余計な説明は書かない。

プロの仕事に、蛇足な形容詞は不要だ。

織部が印字したのは、たった二つの数値だけだった。

『 8,000V 』 『 10.000V 』

織部は出力されたシールを、切替スイッチの両脇に丁寧に貼り付けた。  

左側のAモード(パルス)の横には、『8,000V』。  

右側のBモード(直結)の横には、『10.000V』。

違いは、カンマ( , )とピリオド( . )。たったそれだけだ。

本来、1万ボルトは『10,000V』と書く。  

だが、織部が書いたのは『10.000V』だ。  

数学的、あるいは国際的な表記の一部において、これは『10ボルト』を意味する。

九条のような男は、自分に都合よく解釈するだろう。

「Aの8,000ボルトは痛そうだ。だが、Bは……たった10ボルトか。なら、デモで触るならこっちだな」と。  

あるいは、「ゼロが多い方が強そうだが、ドットがついているから精密な微弱電流だろう」と、勝手な理屈をつけるかもしれない。

「……印刷、完了」

織部はスイッチをパルスの『A』に合わせてセットした。  

普段は致死性の方にスイッチを入れることにしている。

九条は、パフォーマンスの時に感電しない方に切り替えだ、と思うだろう。  

だが実際には、そこには致死性の電流が待ち構えている。

警察が後で調べても、そこにあるのは「ピリオドが打たれた、誤植のあるシール」だけ。

「メーカーが数値を間違えましたね」で終わる話だ。

「九条さん。あなたは投資家に、この施設の『安全性』をアピールしたいのでしたね」

織部は森の奥、薄い土の下に隠された瓦礫の山を見つめた。  

昨夜の雨で、地面はぬかるんでいる。  

電気を通しやすい、最悪のコンディションだ。  

安全を証明する一番手っ取り早い方法は、自ら触れてみせることだ。  

あの見栄っ張りで、虚勢だけで生きてきた男なら、必ずそうする。

織部は制御ボックスの鍵を閉め、その場を後にした。  

森の木々が、風にざわめいている。  

それはまるで、土の下で息を殺している山そのものの怒りのようだった。


(第4話へ続く)

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