第2話 第2話:逆転する指先
午後三時。
予報通り、冷たい雨が工場のトタン屋根を叩き始めていた。
権田プレス工業の工場内は、朝とは違う種類の緊張感に包まれていた。
突然の訪問者――労働基準監督署の査察官たちがやってきたからだ。
「権田工場長、先日の死亡事故についてですが、安全装置の運用記録を見せていただけますか?」
「だから何度も言ってるでしょう! うちは適正にやってるって!」
権田は苛立ちを隠そうともせず、査察官たちを怒鳴りつけていた。
額には脂汗が滲んでいる。
センサーを切っていることがバレれば、今度こそ業務停止命令、あるいは逮捕だ。
「記録より、現物を見てもらった方が早い。おい、あの新型を動かせ!」
権田は強引に話を打ち切ると、自慢の巨大プレス機へと査察官たちを誘導した。
実際に動かして見せ、センサーが(見かけ上)作動しているフリをして、彼らを追い返す腹積もりだった。
もちろん、センサーが反応しない位置取りを知っているのは自分だけだ。
「いいか、よく見てろ。日本の技術ってのはなぁ……」
権田は慣れた手つきで操作パネルの起動ボタンを押した。
重低音と共に、数トンの鉄塊である金型が持ち上がる。
――ブウン、ガガッ!
その時だ。
スムーズに動くはずの機械が、嫌な金属音を立てて停止した。
同時に、赤い警告灯が激しく点滅し、耳障りなアラーム音が工場内に響き渡る。
「な、なんだ!?」
査察官たちが身構える。
権田は顔面を蒼白にした。
(まさか、故障か? よりによってこんな時に!)
原因は単純だ。
午前中、織部がステッカーを貼り替える際、排気口にほんの小さな「紙屑」を詰めておいたのだ。
それが数時間の稼働でフィルターを詰まらせ、オーバーヒートの警告を出させたのである。
だが、技術屋ではない権田にそんなことが分かるはずもない。
「工場長、これは……異常動作では?」
「う、うるせえ! ただのセンサーのエラーだ! すぐ直る!」
権田は焦った。 このまま調べられれば、センサーの切断どころか、もっとボロが出る。
今すぐアラームを止め、機械を正常位置に戻さなければならない。 強制リセットだ。
(ええっと、緊急解除、緊急解除……!)
パニックに陥った権田の視界に、午前中に新しくなったばかりの『ピカピカの操作マニュアル』が飛び込んできた。
ビーッ、ビーッ! という警告音が鼓膜を打つ。
視界の端で、赤いパトランプが回転している。
査察官たちの疑わしげな視線が突き刺さる。
早く止めろ。早く、早く。
頭の中は「危険」「止まれ」という信号で埋め尽くされていた。 赤だ。赤は止まれだ。
権田は、マニュアルの中に「赤色」で強調された文字を探し、反射的にその指示に従った。
貼り替えられたステッカーには、大きくこう書かれていた。
『 警 告 (最大加圧) :レバー(A)を引く 』(※赤文字)
『 停 止 (ストップ) :ボタン(B)を押す 』(※青文字)
織部は、嘘の手順など書いていない。
ただ、「加圧」の指示行を毒々しい赤色の太字で書き、「停止」の指示行を目立たない青色の細字で印刷しただけだ。
機械のレバーとボタンには色がついていない。
だからこそ、権田はマニュアルの「色」を信じるしかなかった。
パニックに陥った権田の目には、一番目立つ赤い文字の行が「緊急時の対処法(=止まれ)」に見えた。
本当の停止ボタンが書かれた青い行は、ただの背景(セーフ)として意識から滑り落ちた。
「止まれぇぇっ!」
権田は叫びながら、赤い文字で書かれた手順――すなわち、加圧操作である『レバー(A)』を全力で引いた。
――ドォン!!
予想とは真逆の、爆発のような音が響いた。
油圧が抜けるどころか、コンプレッサーが最大出力で唸りを上げる。
「えっ?」
権田が声を上げる間もなかった。
制御を失った数トンの鉄塊が、操作盤にしがみついていた権田の作業着の袖を巻き込みながら、猛スピードで落ちてきたのだ。
「ぎゃああああああああ!!」
断末魔の悲鳴は、一瞬で途切れた。
その直後。
査察官の一人が「救急車……っ!」と叫ぼうとして、声が裏返った。
もう一人は、反射的に機械を止めようと手を伸ばしたが、どこにも「止まれ」と書いてあるボタンが見当たらず、空中で指を泳がせたまま凍りついた。
アラーム音だけが、無機質に鳴り響いている。
機械は、権田の入力(コマンド)を忠実に実行したに過ぎない。
そこに、善悪の判断はなかった。
***
夕方のニュース番組。
画面の端に、速報テロップが流れた。
『都内のプレス工場で事故 工場長の男性が機械に挟まれ死亡 操作ミスの可能性』
古びた喫茶店のカウンターで、織部はそのニュースを眺めながら、コーヒーを啜った。
手元のスマートフォンには、依頼主からの「入金完了」の通知が届いている。
「操作ミス、か」
織部はカップを置く。
世間ではそう処理されるだろう。
誰も、そのマニュアルの「色使い」が悪意に満ちていたとは気づかない。
そこに書かれているのは「色のセンスが悪いだけの、正しいマニュアル」だ。
デザインの良し悪しで、殺人の罪は問えない。
証拠は残らない。
残るのは、「マニュアル通りに行動した」という事実だけ。
「……誤字脱字(エラー)の修正、完了」
織部は伝票を掴んで立ち上がった。
店を出ると、雨は上がっていた。
街の灯りが水たまりに反射し、整然と並んでいる。
「世界は、仕様通りに戻った」
織部はそう呟くと、コートの襟を立てた。
感情はない。
ただ、歪んでいたものが正されたという、微かな静寂だけがあった。
明日のターゲットは、自然を汚すキャンプ場のオーナーだ。
彼にもまた、少し刺激的な「訂正」が必要だろう。
(第2話 完)
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