マニュアルキラー

早野 茂

第1話 安全第一の嘘

世の中は、間違いであふれている。


月曜日の朝。通勤ラッシュのピークを過ぎた駅のホームに降り立った織部悟(おりべ さとる)は、目の前の柱に貼られた広告を見て、眉間のシワを深くした。


『全品20%OFF! 今だけのチャンス!』


違う。   全角英数字と半角英数字が混在している。

「OFF」は全角で、「20」は半角。 さらに言えば「!」の後のスペースが全角になっていない。  

そもそもフォントのウェイト(太さ)が、キャッチコピーと本文でバラバラだ。  

デザイナーの怠慢か、クライアントの無知か。

どちらにせよ、整合性が取れていない。

気持ちが悪い。


織部は鞄から愛用の赤ペンを取り出したい衝動を必死に抑え、舌打ちと共に視線を逸らした。


「……修正(フィックス)が必要だ」


それは広告のことか、それともこの歪んだ世界のことか。  

ジャケットのポケットの中で、スマートフォンが短く震える。  

依頼だ。  

織部は雑踏に紛れながら、静かに通話ボタンを押した。


「はい。……ええ、誤植の訂正依頼ですね。承りました」


今回のターゲットは、ある工場のプレス機。  

いや、正確にはその機械を操る人間だ。  

文字通り、ペシャンコに修正(デバッグ)すべき「社会のエラー」がそこにいる。


***


都心から電車で一時間半。

工業地帯の一角に、その工場「権田(ごんだ)プレス工業」はあった。  

油と鉄の焼ける匂いが充満する薄暗い工場内。  

織部は、グレーの作業着に身を包み、「安全管理コンサルタント」という偽の肩書きを記した名刺を差し出していた。


「いやぁ、わざわざすいませんねえ。メーカーさんが、どうしてもシールを貼り替えろってうるさいもんだから」


名刺を受け取ることもなく、ぞんざいに手を振ったのは、工場長の権田(ごんだ)という男だ。  

五十代半ば。脂ぎった顔に、だらしない体型。

作業着のボタンは弾け飛びそうで、ヘルメットの顎紐は締めていない。


「定期点検の一環ですので。新しい安全基準に対応した表示に張り替える義務がございます」


織部は営業スマイルを貼り付け、淡々と答えた。  

視線の先で、権田が鼻を鳴らす。


「安全、安全って、うるせえんだよな今の世の中は。ウチみたいな下町工場は、多少の危険があっても回転率上げてなんぼなんだよ」

「……先日、従業員の方がお亡くなりになった事故も、回転率を優先された結果ですか?」


織部の指摘に、権田の顔から薄笑いが消えた。  

先月、この工場で二十代の若い作業員が、プレス機に挟まれて死亡した。  

原因は「安全センサーの無効化」。

権田が意図的に切っていたのだ。  

だが、権田は警察に対し、「作業員が勝手に切った」と主張。 証拠不十分で不起訴となっている。


「あいつがドジ踏んだだけだ。機械の使い方もろくに読めねえゆとり世代が」


権田は吐き捨てるように言った。  

ふと、織部の視線が床の一点に止まる。  

巨大なプレス機の足元。

コンクリートの床に、どれだけ洗剤で擦っても落ちきらなかったであろう、黒ずんだシミが微かに残っていた。  

――あそこか。  

若者が、理不尽に削除(トル)された跡は。


(確定。……こいつは、仕様を満たしていない)


織部の眼鏡の奥の瞳が、感情を排した無機質な光を宿す。  

怒りではない。

不良品を検品する際の、冷徹な判断だ。


「左様でございますか。では、早速作業に入らせていただきます。対象の機械は?」 「あそこのデカい最新型だ。俺専用のな」


権田が顎でしゃくった先に、その怪物は鎮座していた。  

高さ三メートルはある巨大な油圧式プレス機。

数トンの圧力をかけ、金属の塊を一瞬でペシャンコにする。


「俺以外に触らせてねえんだ。他の馬鹿どもにいじらせて、また事故でも起こされたらたまんねえからな」


権田はそう言って、ズボンのポケットから煙草を取り出した。

工場内は火気厳禁のはずだが、この男にルール(仕様書)は通用しないらしい。


「俺は事務所で一服してくる。適当に貼り替えて帰ってくれ。ああ、終わったら勝手に出てっていいから」

「承知いたしました」


権田が面倒くさそうに背を向け、事務所へと歩き去っていく。  

その背中が見えなくなるのを待ち、織部はゆっくりと息を吐いた。


「さて……校正の時間だ」


織部は鞄を開いた。  

中に入っているのは、銃でも爆弾でもない。  

ノートパソコン、小型のシールプリンター、そしてカッターナイフと定規。  

彼はプレス機の操作盤の前に立った。


そこには、無骨な鉄色のレバー(A)と、何の変哲もない黒いボタン(B)が並んでいるだけで、機械自体には色による表示がいっさい無い。

頼りになるのは、メインパネルの横に貼られた一枚の大きな「緊急時操作マニュアル」の図解ステッカーだけだ。  

そこには、万が一機械が誤作動した際の対処法が、イラスト付きで分かりやすく解説されている。


――『操作手順書』  

1.レバー(A)を手前に引く(加圧実行)  

2.ボタン(B)を強く押す(緊急停止)  

※注意:緊急時は(B)を押すこと。


織部は指先でそのステッカーをなぞった。  

メーカー純正の、しっかりとしたビニールコーティング。

フォントはゴシック体。

停止ボタンの指示が、目立つように赤枠で囲われている。


「……なるほど。機械に色がない以上、人間はマニュアルの『強調色』に頼るしかない」


織部はパソコンを開き、手慣れた手つきでデザインソフトを立ち上げた。  

彼が今から作るのは、このメーカー純正ステッカーと「瓜二つ」の偽物だ。  

フォントの種類、文字の太さ(ウェイト)、カーニング(文字間隔)。  

全てを完璧に模倣する。  

0.1ミリのズレも許さない。

彼の校正者としてのプライドが、偽物を本物以上に本物らしく仕上げていく。


ただし、書いてある「情報の優先度(カラーリング)」だけが致命的に違う。


織部は、マニュアル内の文字色の配色を入れ替えた。  

さらに、イラストの強調部分を、微妙に書き換える。  

一見すると、今までと同じマニュアルに見える。  

だが、これを信じて操作すれば、油圧を止めるどころか、限界まで加圧し、強制的にプレスを実行させるコマンドになるように。


プリンターが静かな駆動音を立て、一枚のステッカーを吐き出した。  

織部はカッターナイフで余白を切り落とす。  

そして、元のステッカーの上に、作成した「誤植だらけのマニュアル」を、気泡一つ入らないように完璧に重ねて貼り付けた。


「……位置よし。ズレなし」


その仕上がりは、メーカーの人間が見ても気づかないだろう。  

だが、これから起こる事象は、メーカーの想定(スペック)を遥かに超える。


織部は道具を片付け、最後にそのステッカーを指で弾いた。  

準備は整った。  

あとは、あの不良品(工場長)が、自ら招いたトラブルでパニックに陥り、縋(すが)るような思いでこのマニュアルを見るのを待つだけだ。


織部は床のシミを一瞥し、小さく一礼した。


「お疲れ様でした。修正(フィックス)完了です」


工場の外に出ると、空はどんよりと曇っていた。  

午後には、雨になるだろう。


(第2話へ続く)

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