第2話 死なない理由
白い天井を見上げたまま、ユウトはしばらく動けなかった。
胸が上下するたび、肺の奥がひりつく。だが――不思議と、致命的な痛みではない。
「……生きてる、よな」
声に出して、ようやく実感が追いついた。
倒れた黒い獣は、もう動かない。血の匂いが、ゆっくりと通路に広がっていく。
手首の測定器が、まだ淡く光っていた。
表示された文字は消えない。
《深度適応》
意味は分からない。
ただ、さっきの感覚――世界が遅くなったあの瞬間が、頭から離れなかった。
(気のせい、じゃない)
立ち上がろうとして、足に力を入れる。
痛みはある。だが、折れてはいない。むしろ、さっきより動く。
「……変だろ、これ」
初心者区域でモンスターに襲われ、転倒して、殴られて。
本来なら、歩ける状態じゃないはずだ。
通路の奥から、慌ただしい足音が聞こえた。
「おい! 無事か!」
作業服の男が、数人を引き連れて駆け寄ってくる。
倒れた獣を見た瞬間、全員の動きが止まった。
「……倒したのか、これ」
「はい……たぶん」
男は信じられないという顔で、ユウトを見た。
「単独で? 武器もなしで?」
「鉄片を……押しただけです」
沈黙。
誰かが、測定器を覗き込んだ。
「レベル……ゼロのまま?」
「は?」
ざわめきが広がる。
ユウトは居心地の悪さに、視線を落とした。
「……事故だな。区域の封鎖が甘かった」
責任者らしき男が、短く息を吐いた。
「灰崎、今日はもう上がれ。医療チェックを受けろ」
「でも……」
「命があっての仕事だ」
その言葉に、逆らえなかった。
地上に戻るエレベーターの中。
ユウトは壁にもたれ、天井を見つめていた。
深度が上がるにつれ、身体が軽くなる。
楽になる、というより――“戻っていく”感覚だ。
(下にいた方が、調子よかった……?)
あり得ない考えに、首を振る。
医療ブースでの診断結果は、拍子抜けするものだった。
「打撲と軽い筋損傷。安静にすれば問題なし」
白衣の女性が、端末を見ながら言う。
「……もっと、ひどいと思ってました」
「普通はそう。でも、回復が早い。若さかしらね」
若さ。
それで片づけていい話じゃない、とユウトは思ったが、口には出さなかった。
帰宅後、狭いアパートの一室。
布団に横になっても、眠れない。
目を閉じると、あの瞬間が蘇る。
獣が跳んだ軌道。床が崩れる予感。
考える前に、身体が答えを出していた。
(俺が……やった?)
手首を見る。
測定器は外しているのに、感覚だけが残っている。
深呼吸をすると、胸の奥が少し温かくなった。
(……もし)
もし、あれが偶然じゃないなら。
もし、あの場所だからこそ起きたことなら。
翌日。
ユウトは再び、ミナトシロ・ダンジョンに立っていた。
「正気か?」
昨日の作業服の男が、呆れた顔をする。
「もう一度、同じ区域で作業を」
「危険だぞ。保証はしない」
「分かってます」
嘘ではなかった。
怖い。だが、それ以上に――確かめたかった。
エレベーターが下降を始める。
数字が下がるにつれ、あの感覚が、じわりと戻ってくる。
耳鳴り。
空気の重さ。
(……来た)
足を踏み出すと、昨日よりも安定している。
痛みは、確かにある。だが、邪魔にならない。
通路の影が、わずかに揺れた。
ユウトは、無意識に身構える。
その瞬間、理解した。
(俺は――ここだと、死なない)
根拠はない。
だが、確信だけがあった。
深度ゼロ。
それは安全な場所ではない。
それでも――
彼にとっては、初めて「呼吸できる場所」だった。
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