第45話 氷と炎のキッチン・リング

海沿いの合宿所。

潮騒の音が響く中、夕食時の厨房は、日中のビーチバレー以上の熱気に包まれていた。

買い出しから戻った悠真と冴を待ち構えていたのは、腕まくりをした凛と、既にタブレットで献立の成分表を作成し終えたリサだった。


「遅かったな、二人とも。

姉さん、スーパーで随分と時間をかけたようだが、夕食の準備は遊びじゃないんだぞ」


凛が鋭い眼差しで冴を射抜く。その腰には、使い込まれた黒いエプロンが巻かれていた。

普段のジャージ姿とは違う、家庭的な雰囲気を漂わせつつも、手に持つ牛刀の扱いはどこかボクサーのそれのように隙がない。


「あら、凛。何を焦っているのかしら。私は少年のコンディションを最優先に考えて買い物をしていただけよ。貴方こそ、その大雑把な性格で、少年の胃袋を壊さないように気をつけることね」


冴が静かに、しかし冷徹に言い返す。

バチバチと視線がぶつかり合う。

間に挟まれた悠真は、手に持った買い物袋の重さ以上に、場の空気の重さに耐えかねていた。


「あ、あの……僕も手伝います」

「「「座ってなさい(なさいよ)!!」」」


三人の声が重なった。リサが眼鏡のブリッジを押し上げながら、悠真を食卓の椅子へと促す。


「佐藤君、あなたの現在の血中乳酸値と推定消費カロリーは、既に私のデバイスが算出済みよ。

今、あなたが台所に立つことはエネルギーの無駄。最高の結果(ディナー)が出るまで、そこでじっとしていて」


こうして、悠真を『ジャッジ』の席に据えた、三人の女帝による調理バトルが始まった。


まず動いたのは凛だった。


「いいか佐藤君、ボクサーの体を作るのは『肉』だ! それも、ただの肉じゃない。心まで熱くなるような、部長特製のスタミナカレーだ!」


凛は山のようなタマネギを驚くべき速さでみじん切りにしていく。そのリズムは、ミット打ちの軽快な音に似ていた。強火で一気に炒められるタマネギが、瞬く間に飴色へと変わっていく。

凛の料理は、彼女のボクシングそのものだった。

迷いがなく、真っ直ぐで、力強い。


「恋愛教本第910章『男を掴むなら、刺激とボリュームで本能を揺さぶれ』。いや、今は教本なんて関係ない。私は、君の部長として、君が一番喜ぶ味を一番よく知っているんだ!」


額に汗を浮かべながら、鍋をかき混ぜる凛。その横顔には、練習で見せる真剣な表情と、悠真にだけ見せる年相応の少女のような必死さが混在していた。


一方で、冴は対照的だった。


「騒がしいわね、凛。少年、私の料理は『静寂』と『調和』よ」


冴が取り出したのは、高級な出汁と選び抜かれた冬瓜。そして、先ほどスーパーで吟味した最高級の牛肉だ。冴の手つきは、まるで手術を行う執刀医のように正確だった。肉の筋を一本一本丁寧に取り除き、ミリ単位で厚さを揃えていく。彼女が作るのは、スパイスの暴力ではなく、素材の旨味を極限まで引き出した、品格漂う和風カレーだ。


「……三年前、私が一人で過ごしていた夜。この味が、私の唯一の支柱だった。少年、貴方に私の『孤独』とそれを溶かしてくれた『感謝』を込めて、この一皿を捧げるわ」


冴の言葉に凛の手が微かに止まる。

姉の抱えていた深い闇を知っているからこそ、その重みに焦りを感じる。

そこへ、リサが計算し尽くされた一撃を放つ。


「感情論は不要よ。佐藤君、私が作ったのは『プロテイン・バランス・薬膳ルー』。味覚の満足度と、翌日の筋肉痛緩和を論理的に両立させたわ」


リサは数種類のスパイスを天秤で量り、実験器具のような小鍋で調合していく。

彼女にとって料理は、悠真という『最高傑作』をメンテナンスするための科学儀式だった。


一時間後。

悠真の前に三つの作品が並んだ。

凛の溢れんばかりの肉と情熱が詰まった、香りの強いスタミナカレー。

冴の透き通るような出汁の香りと、気品ある牛肉が鎮座する和風カレー。

リサの、見た目にも鮮やかな彩りと、計算された栄養が凝縮された薬膳カレー。


「……さて。佐藤君、どれから食べるのかしら?」


リサがじっと悠真の手元を見つめる。


「少年、遠慮はいらないわ。貴方の身体が一番欲しているものを選びなさい」


冴が絶対的な自信を湛えた瞳で微笑む。

そして、凛が少しだけ震える声で言った。


「……佐藤君。私が君のことを一番に考えて作ったんだ。食べてくれ」


悠真は、まず凛のカレーをスプーンで掬った。

口に入れた瞬間、暴力的なまでの旨味と、汗が吹き出すようなスパイスの熱、そしてそれを包み込むタマネギの甘みが口いっぱいに広がった。


「……っ。おいしい、です。すごく……力が湧いてきます、凛先輩」

「だろう!? ああ、良かった……!」


凛の顔がパッと花が開いたように明るくなった。

その屈託のない笑顔は、夏の終わりの夕陽よりも眩しかった。

しかし、一息つく間もなく、冴のスプーンが悠真の口元へと運ばれる。


「少年、私の『あーん』を無視するつもりではないわね?」

「「っ……!?」」


凛とリサの絶叫が厨房に響く。

冴の大人の余裕という名の暴力的な攻撃。


「……冴さん、それは反則です……!」

「反則? 少年が食べにくいかと思って、手伝っているだけよ。さあ、食べて?」


悠真は顔を真っ赤にしながら、冴から差し出された一品を口にする。

それは、凛のものとは正反対の、優しく、深く、心に染み渡るような味わいだった。


「……落ち着きます。冴さんのカレー、すごく、ホッとします」

「……そう。それでいいわ」


冴は満足げに目を細め、凛の方をチラリと見た。


「聞いたかしら、凛。貴方のカレーは『興奮』を与えるけれど、私のカレーは彼に『安らぎ』を与えるの。今の彼に必要なのは、どちらかしら?」

「なっ……! 安らぎなら、私の膝枕(恋愛教本第920章)だって負けないぞ!!」

「……その教本、一度燃やしたほうがいいわね」


リサが冷たく突っ込みを入れながらも、自分の薬膳カレーを悠真の前にグイと差し出す。


「佐藤君。私のこれも、一口でいいから摂取しなさい。あなたの明日のパフォーマンスを私が保証してあげる」


狭いキッチンは、もはや三人の女帝のプライドと独占欲が渦巻くこの合宿で最大の戦場と化していた。

悠真は、交互に差し出されるスプーンと三方向から注がれる熱すぎる視線に晒されながら、ボクシングを始めて、一番の危機かもしれないと本気で思うのだった。



夕食後の片付けを終え、合宿所が静まり返った頃。

お腹いっぱいになったはずの悠真だったが、三人の熱気に当てられ、火照った体を冷ますために一人で近くの防波堤へと向かった。

そこにいたのは、海風に髪をなびかせ、シャドーボクシングを繰り返す凛の姿だった。


「……凛先輩?」

「あ……佐藤君」


凛は動きを止め、照れくさそうに拳を下ろした。

月明かりに照らされた彼女の瞳は昼間の元気な姿とは違い、どこか寂しげで潤んでいるように見えた。


「……さっきのカレー。姉さんの方が、やっぱり大人っぽくて、美味しかったよな」

「えっ? そんなことないですよ! 先輩のカレー、僕、一番好きです」


悠真の真っ直ぐな言葉に、凛は防波堤に座り込み、膝を抱えた。


「……私は、不安なんだ。君がどんどん強くなって、姉さんやリサみたいな『凄い人たち』に囲まれているのを見ると私だけが、ただの『ボクシングバカ』で、君に何もしてあげられていない気がして」


凛の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

今すぐにでも『そんなことないですよ!』と言うところだが、悠真は踏みとどまる。

彼女がまだ、話し終えていなかったからだ。

ゆっくりと言の葉を紡ごうとしている。

今はただ、待つことにした。


プライドと恋に臆病な少女の心が、静かな海辺で交差する。潮風がひんやりとしていたそんな夜の晩。


「……佐藤君。……私は、君の部長だけど。

……本当は、それだけじゃ嫌なんだ」


氷川凛という少女は想いを告げる。

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