第37話 氷解(ひょうかい)の独白、そして素顔のままで

病院の個室は、驚くほど静かだった。

窓の外には、激闘の終わりを祝福するような、穏やかな群青色の夜が広がっている。


「……ん、……っ」


ベッドに横たわる冴さんの指先が、微かに動いた。

パイプ椅子に座って、うたた寝しかけていた僕は、その小さな変化に飛び起きた。


「冴さん! 気がついたんですか!?」


彼女はゆっくりと、重い瞼を押し上げた。焦点が定まるまで数秒。やがて僕の顔を捉えると、彼女は力なく、けれど確かに、ふっと息を吐いた。


「……少年。……ここは?」


「病院です。あの後、倒れてから1週間くらい経ちました。凛先輩もリサさんも無事です。怪我の手当を受けて、今は外で飲み物を買いに行っています」


「そう……。凛は……泣いていなかったかしら」

「泣いてましたよ。……でも、最後は笑ってました。姉さんは世界一強いんだって」


その言葉を聞いた瞬間、冴さんの瞳が微かに揺れた。彼女は動く方の左手を顔に当て、自分の頬をなぞるように触れた。まるで、そこにまだ『氷の仮面』が残っているか確認するように。


「……少年。……私は、ずっと怖かったのよ」


不意に漏れた彼女の声は、これまでの命令的な響きを完全に失っていた。震える、一人の少女のような、か細い声。


「三年前……零に敗北して、私の心は一度死んだ。感情を動かせば、またあの時の『負け』が蘇る。

だから私は、自分を氷の中に閉じ込めた。冷徹で、完璧で、誰も寄せ付けない『氷の女帝』であれば、二度と傷つかずに済むと思い込んで……」


彼女は視線を天井に向けた。

そこには、無理やり抑え込んできた三年間分の後悔が滲んでいるようだった。


「でも、貴方が現れた。理論を無視して、泥臭く、ボロボロになりながらも立ち上がる貴方の姿を見て……私の中の氷が、少しずつ、音を立てて崩れていくのが分かったの」


「冴さん……」


「今日の試合も本当は足が震えていたわ。

でも、貴方の腕の中に残っていたあの熱が、私を突き動かしたの。凛を守りたい、この場所を守りたい……そして、貴方に『無様な背中』を見せたくない……そう思えたのよ」


冴さんはゆっくりと顔をこちらに向け、僕の手の甲に、熱を持った左手をそっと重ねた。


「……少年。……いいえ、悠真(ゆうま)君。

貴方が、私を『人間』に戻してくれたのね」


彼女の瞳から、一筋の涙が零れ落ち、白いシーツに染みを作った。それは、三年間凍りついていた彼女の心が、ようやく溶け出した証だった。


「冴さん……僕は、ただ、冴さんのボクシングに憧れて……」

「ふふ……そうね。でも、これからはボクシングだけじゃなくて……私の『わがまま』にも、少し付き合ってもらうわよ?」


彼女は涙を拭うこともせず、悪戯っぽく、けれど最高に美しい『素顔』の笑みを僕に向けた。


「廃部はもちろん白紙。明日からは、もっと厳しい『個人指導』を覚悟しなさい。今度は、私の私生活のセコンドをしてもらおうかしら?」


「えっ、私生活……?」


僕が困惑した瞬間、病室のドアが勢いよく開いた。


「「ちょっと姉さん(冴さん)!!」」


雪崩れ込んできた二人を見て、冴さんは再び『女帝』の顔を作ろうとしたが、堪えきれずに声を上げて笑った。それは、これまでの冷徹な威圧感が嘘のように消え去った心からの笑いだった。

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