第36話 氷解(ひょうかい)と温かな腕の中で

「これで……終わりよ!!」


冴さんの咆哮が体育館に響き渡る。

零(ゼロ)の冷徹な連撃をすべて受け流し、その一瞬の隙――彼が「感情」という未知のノイズに戸惑った刹那を、冴さんは逃さなかった。


凛先輩の力強さと、リサのしなやかさ、そして僕の放った予測不能な踏み込み。

そのすべてを昇華させたような、氷川流の極致。

冴さんの右拳が、零の胸の正中線を真っ向から撃ち抜いた。


「――っ、が、あ……っ!?」


初めて、零の口から人間らしい悲鳴が漏れる。

衝撃波が背中にまで突き抜け、無機質だった彼の瞳が大きく見開かれた。そのまま、彼は糸が切れた人形のように後方へ吹き飛び、特設リングの柱に激突して、力なくマットに沈んだ。


「……ハァ、ハァ……」


静寂。北門工業の者たちも、聖華の生徒たちも、誰もが声を出せなかった。

最強の破壊兵器と呼ばれた男が、一人の女性の執念の前に屈したのだ。


「……勝った、のか……?」


凛先輩が痛む腕を抱えながら呆然と呟く。

冴さんは立ったまま、沈黙する零を見下ろしていた。だが、その肩が激しく震えている。


捲り上げられたワイシャツの袖から見えるその腕は、零の硬質な打撃を無理やり受け流した代償で、どす黒く変色し、細かな震えが止まっていない。


「……冴さん!」


僕は予感めいた不安に突き動かされ、リングへと駆け上がった。僕が彼女の元に辿り着くと同時に、冴さんの膝がガクリと折れた。


「――冴さん!!」


倒れそうになる彼女の体を、僕は正面から抱きとめた。腕の中に伝わってきたのは、いつもの絶対零度のような冷たさではない。

激しい戦闘で高揚し、燃え上がるような熱さと、そして――。


「……っ、ハァ……ハァ……。少年、……無様ね、私は……」


僕の胸に顔を埋める形になった冴さんの声は、消え入りそうなほどに弱々しかった。

彼女の体は驚くほど細く、そして、限界をとうに超えてボロボロだったのだ。


「無様なんかじゃないです! 凄かったです本当に」


「……そう。なら、いいわ……。……廃部は、……撤回よ。……約束、守ったわよ……凛……」


冴さんの瞳から、すっと力が抜ける。

張り詰めていた緊張の糸が切れたのだ。

彼女は僕の腕の中で、安らかな寝息を立てるように意識を失った。


「姉さん!!」

「冴さん!!」


凛先輩とリサもリングに駆け寄ってくる。

二人の目には、涙が浮かんでいた。

冴さんは、自分の心を壊した因縁の相手に勝ったのではない。教え子たちの未来を、妹の笑顔を、そして新しく見つけた自分の『感情』を守るために、自分自身の過去を打ち破ったのだ。


「佐藤君。姉さんをそのまま保健室……いや、病院へ。あとのことは私がつける」


凛先輩が、負傷した腕を吊りながらも、部長としての凛々しい顔で言った。

僕は、気を失った冴さんの体に腕を回し、慎重に抱え上げた。


(……重い)


それは物理的な体重以上に、彼女がたった一人で背負い続けてきた『女帝』としての重圧、そして教え子たちの未来を繋ぎ止めるために振り絞った、命の重みそのものだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る