第32話 女帝の落涙と魂の鉄拳(ビンタ)

「……ジャン、ポール……嘘よ、どうしてあなたが日本に……」


リサの足が目に見えて震えていた。

あの優雅なサバットの使い手が、構えることすら忘れて立ち尽くしている。

阿修羅と呼ばれた男は、首の骨を鳴らしながら一歩ずつリサへ歩み寄る。


「フランスの育成機関を去った俺が、どこへ行こうと勝手だろう? リサ、お前の『計算』は三年前、俺の暴力の前に完全に崩壊した。

日本でどれだけおままごとを続けようと、一度植え付けられた恐怖は消えない。そうだろう?」


リサの瞳に、絶望の色が広がる。

その時だった。


「――うるさいぞ、この筋肉ダルマッ!!」


鋭い怒号と共に、凄まじい風がリサの横を通り抜けた。バチンッ!! と乾いた音が体育館に響き渡る。

凛先輩が、リサの頬を思い切り平手打ち(ビンタ)したのだ。


「……っ、凛さん……? あなた、何を……」


頬を赤く染め、呆然とするリサ。


「何をボサッとしている! 恋愛教本第210章『ライバルの涙を見ていいのは、自分に敗北して泣く時だけだ』! こんな男の口先三寸で、勝手に心を折られてんじゃねぇ!」


凛先輩はリサの胸ぐらを掴み、その顔を至近距離まで引き寄せた。


「いいか、リサ! 私はあんたがフランスで何があったかなんて知らない! だけど、あんたは昨日、あの姉さんのガードを弾き飛ばしたはずだ!

私と、佐藤君と一緒に……あんたの脚は、過去の幻影を蹴るためにあるのか!?」


「……凛、さん」


「佐藤君を見ろ! 初心者のくせに、ボロボロになりながら、あんたの居場所を守るためにあんな怪物(鮫島)を倒したんだぞ! その彼に、次はあんたが背中を見せる番だろうが!!」


僕は、二人の間に割って入った。


「リサさん。僕、リサさんのキックは世界一綺麗だと思ってます。昨日の特訓で、僕を守ってくれたあの蹴り、もう一度見せてください」


リサの瞳に一瞬だけ光が戻った。

彼女はゆっくりと深呼吸をし、震える手で自分の金髪をきつく結び直した。


「……ふん、全く。二人して、熱苦しいのよ。

私の頬を叩くなんて、フランスの大統領でもしないことだわ」


リサが凛先輩の手を振り払い、不敵な笑みを浮かべて阿修羅を睨みつける。その立ち姿は、先ほどまでの怯えた少女ではなく、誇り高き『金髪の女帝』そのものだった。


「阿修羅……いえ、ジャン。私はもう、あの頃の無力な計算機じゃないわ。根性論を叫ぶバカと、底知れない可能性を秘めた初心者にちょっと毒されちゃったみたいだから」


リサは優雅に、そして鋭く、サバットの構えを取った。


「私の新しい計算式にあなたの『暴力』は一分も持たないわよ」


リングの空気が再び沸点に達した。

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