第18話 逆鱗(リミット)解除は、紅蓮の拳と共に

文化祭最終日。特設リングの周囲は、地響きのような歓声に包まれていた。

僕の対戦相手は、金髪のリサがフランスから呼び寄せた刺客、ジャン・ピエール。ジュニア王者という肩書きは伊達ではなく、彼の放つ蹴りはボクシングの常識を遥かに超える間合いから飛んできた。


「……っ、がはっ!」


ジャンの重いミドルキックが、僕の脇腹を抉る。

ガードの上からでも骨が軋む音が聞こえた。

視界が火花のあとに白く濁る。

それでも僕は立ち上がった。

セコンド席で拳を握りしめ、必死に僕を見つめる凛先輩の姿が、僕をマットに繋ぎ止めていたからだ。


「立て、佐藤君! 恋愛教本第80章だ『窮地の男が見せる執念こそが、女の心を最も激しく揺さぶる』! 死ぬ気で食らいつけ!」


先輩の叫び。その声に応えたくて、僕は一歩踏み込んだ。泥臭い、格好の悪い突撃。ジャンの懐に潜り込み、渾身の左ボディを叩き込む。ジャンの顔が歪んだ。いける――そう確信した刹那。


「……Fin(終わりだ)」


ジャンの冷徹な呟き。

死角から、完璧な軌道で放たれた右のハイキック。

僕の意識は、衝撃を感じるよりも早く、真っ暗な奈落へと突き落とされた。

ドサリ、と自分の体が崩れ落ちる音さえ聞こえなかった。


「勝者、ジャン・ピエール!」


冴さんの冷徹な宣告が、遠くの方で聞こえる。

僕は動けなかった。マットに頬を押し付けたまま、ただ荒い呼吸を繰り返す。

勝って、先輩にバトンを渡したかった。でも、僕の夏はここで終わってしまった。


「あら。案外、あっけなかったわね」


リングサイドで金髪をなびかせたリサが、倒れた僕を見下ろして冷たく言い放った。


「凛さん、これがあなたの選んだパートナーの限界よ。こんな無能な男にうつつを抜かしているから、あなたの拳は鈍るの。

……正直、期待外れもいいところだわ」


リサは僕のグローブを軽く蹴り飛ばし、鼻で笑った。


「こんなゴミみたいな男、もうボクシング部にはいらないわ。ねえ、凛さん? 負け犬はさっさと処分して、私と『本当の戦い』をしましょうよ」


その瞬間。

会場の空気が、凍りついた。


「……リサ。今、なんと言った」


僕を抱きかかえようとリングに上がってきた凛先輩の声は、驚くほど低く、静かだった。

だが、その背中から立ち上る威圧感は、周囲の観客を震え上がらせるほどに禍々しい。


「……え? だから、この男はもういらないって――」

「黙れ」


先輩がゆっくりと立ち上がった。

その瞳は、いつもの冷静な『女帝』のものではない。深紅の炎が揺らめき、理性のリミッターが完全に焼き切れた、修羅の目だ。


「佐藤君が……ゴミだと? 彼の努力を、彼の痛みを、お前ごときが笑うのか?」


先輩の全身が、小刻みに震えている。

それは恐怖ではなく、溢れ出しそうな破壊衝動を必死に抑え込んでいる震えだった。


「恋愛教本第90章……『愛する者を侮辱された時、女は理性を捨て、ただの“獣”と化す』。今、その一節を、私の魂(フィスト)が理解したぞ」


先輩はバンテージを巻いた拳をリサの鼻先に突きつけた。


「姉さん、一分後のメインイベントなんて待てない。今すぐ始めろ。私が、この金髪の増長したプライドを粉々に粉砕してやる」


「……いいわ。その顔、久しぶりね。凛」


生徒会長・冴さんが、不敵な笑みを浮かべてゴングを鳴らした。


「始めッ!!」

「死ねッ!」


リサが鋭い前蹴りを放つ。

だが、先輩はそれを避けない。

あえてその蹴りを肉体で受け止め、肉を切らせて骨を断つ。強引に間合いを潰すと、リサの美しい顔面に、岩をも砕くような右ストレートを叩き込んだ。


「が……っ!?」

「これは、佐藤君の痛みだ。次は、彼のひたむきさを嘲笑った報いだ!」


先輩の連打が始まった。

メイド服のフリルが激しく舞う中で繰り出される、音速のコンビネーション。

ボクシングの枠を超えた、怒りによる暴風雨。

リサの金髪が乱れ、誇り高かった青い瞳が恐怖に染まる。


「……ひ、氷川……凛……ッ! あなた、正気!?」


「佐藤君を……私の大切なパートナーを侮辱する奴は、私が地の果てまで追い詰めて、二度と拳を握れないようにしてやる!!」


先輩の咆哮が、文化祭の喧騒を完全に支配した。

意識が朦朧とする中で、僕は見た。

僕のために、あんなに不器用で優しかった先輩が、形振り構わず『獣』になって戦っている姿を。

それは、どんな教本にも載っていない、最も純粋で、最も激しい愛の形だった。

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