第19話 暴走の終止符は、冷徹な抱擁

「まだだ……まだ足りない! 佐藤君が流した血の分まで、その顔面を赤く染めてやる!」


凛先輩の拳は、もはやボクシングの範疇を超えていた。ガードを固めることしかできないリサに対し、先輩は防具ごと叩き潰さんばかりの連打を浴びせる。メイド服のレースは千切れ、飛び散る汗と怒声が華やかな文化祭のリングを戦場へと変えていた。


「凛、やめなさい! 相手はもう戦意を喪失しているわ!」


リングサイドから冴さんが叫ぶが、先輩の耳には届かない。白目を剥きかけ、膝から崩れ落ちようとするリサの胸ぐらを掴み上げ、先輩が最後の一撃――理性をすべて乗せた右ストレートを振りかぶった。


「終わりだ、リサッ!!」


その拳が放たれる直前。


「――そこまでよ、馬鹿な妹(凛)」


背後から伸びてきた冴さんの腕が、先輩の首筋と両腕を瞬時にロックした。

『氷川流・捕縛術』。全国を制した姉の技術が、暴走する『獣』の動きを完璧に封じ込める。


「離せ、姉さん! その女は、佐藤君を……佐藤君を笑ったんだぞ!」

「落ち着きなさい! これ以上やれば、貴方が守りたかったはずの『ボクシング部』も、あの少年との未来も、すべて貴方の拳で壊すことになるわよ!」


冴さんの鋭い一喝が響く。それでも先輩は、拘束を振り払おうと猛烈に暴れ続けた。

だが、冴さんは先輩の耳元で、冷たく、しかし静かな声でこう告げた。


「……見なさい、凛。貴方のパートナーが、どんな顔で貴方を見ているか」


「……えっ」


先輩の動きが止まった。朦朧とした意識の中で、僕は必死に声を絞り出した。


「……せん……ぱい……。もう、いいんです……。そんな……悲しい顔で……殴らないで……」


マットに沈んだ僕の視界に映っていたのは、怒りに狂った鬼ではなく、僕のために今にも泣き出しそうな、歪んだ表情をした大好きな人の顔だった。


「……あ……」


先輩の拳から力が抜けた。冴さんが拘束を解くと、先輩は崩れ落ちるようにリサを放し、僕の元へ這うようにして駆け寄ってきた。


「佐藤君……。私、は……」


先輩の手が、血の気が引いた僕の頬に触れる。

その手は、先ほどまでの破壊的な熱を失い、驚くほど震えていた。


「ごめん……。私が、弱かったから……。君を、守れなかった……。君の努力を、あんな風に言われて……私、どうしていいか分からなくて……ッ!」


文化祭の喧騒の中、全校生徒の前だということも忘れ、先輩は僕の胸に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。メイド服のヘッドドレスが外れ、乱れた髪が僕の顔にかかる。


「……先輩。……勝ったのは、先輩ですよ」


僕は残った力を振り絞って、彼女の震える背中に手を回した。


「――全く。とんだ茶番ね」


リサを保健委員に預けた冴さんが、溜息をつきながら僕たちを見下ろしていた。


「……でも、いいわ。凛、貴方は初めて教本以外の『答え』を見つけたようね。

少年、貴方も妹のこんな醜態を引き出した責任、一生かけて取ってもらうわよ」


夕暮れ時のリングの上。

勝ち名乗りを上げる者もいない静寂の中で、僕たちはいつまでも、お互いの体温を確かめ合っていた。

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