第15話 審判(レフェリー)は、残酷に微笑む

「……再教育、ですか?」


僕は冷や汗が背中を伝うのを感じた。目の前に立つ氷川冴さんは、凛先輩と同じ遺伝子を持ちながら、放つ威圧感の『密度』が違った。

凛先輩が燃え盛る炎だとしたら、この人は全てを凍りつかせる絶対零度の吹雪だ。


「ええ。妹をあんな締まりのない顔にさせた責任、取ってもらうわよ」


冴さんは一歩、また一歩と畳を踏みしめて近づいてくる。その一歩ごとに、部屋の空気が重く圧縮されていくようだ。


「待ってくれ姉さん! 佐藤君は悪くない、悪いのは私の……私の寝相と、この緩んだ浴衣であって……っ!」

「凛、貴方は黙っていなさい。パートナーを選ぶ眼力がないから、私が選別してあげるだけよ」


冴さんは細い指先で僕の胸元をトン、と突いた。

それだけで、まるで鋼鉄の棒で突かれたような衝撃が走る。


「……ついてきなさい。砂浜にちょうどいいリングがあるわ」


朝焼けに染まる砂浜。

人影のない波打ち際に、僕たちは立っていた。

冴さんはおもむろに制服のジャケットを脱ぎ捨て、僕に投げ渡した。下に着ているブラウス越しでも、無駄のない筋肉の動きが透けて見える。


「ルールは単純。三分一ラウンド。貴方が私の攻撃を一度でも避けるか、あるいは立ち続けていられたら、凛との関係を一時的に保留してあげる。

失敗したら、貴方は今日限りでボクシング部を辞め、凛の前から消えなさい」


「そんなの無茶だ! 佐藤君はまだ始めて数ヶ月の初心者なんだぞ!」


凛先輩が僕の前に割り込もうとするが、冴さんは冷たい視線一つでそれを制した。


「初心者? 関係ないわ。凛、貴方が選んだ男なら、奇跡の一つくらい起こしてみせなさいよ」


冴さんが構える。それはボクシングの構えではない。全身を脱力させ、どこからでも、どんな角度からでも打撃を放てる『静』の構え。


「……始め」


その瞬間、世界から音が消えた。視界がブレるほどの踏み込み。気づいた時には、冴さんの掌底が僕の鼻先数ミリの場所で止まっていた。放たれた衝撃波だけで、僕の髪が大きく後ろへなびく。


「……一発目。次は当てるわよ」


速い。神宮寺とは比較にならない。これが、かつて全国を制した天才の格闘センス。次々に繰り出される突き、蹴り、そして鋭いジャブ。僕は凛先輩に教わったウィービングやブロッキングを必死に繰り出すが、冴さんの攻撃はまるで僕の動きを予見しているかのように、正確に急所を掠めていく。


「どうしたの? 凛の『特訓』はその程度? 彼女が夜中にノートを書き溜めて、貴方のことを考えて眠れなくなるほど尽くした結果が、これ?」


「……えっ」


冴さんの言葉に一瞬意識が逸れた。

凛先輩が、眠れなくなるほど……?


「隙あり」


鋭い右のストレートが、僕のガードの真ん中を貫こうとした。避けられない。

そう確信した瞬間、僕の脳裏に、今朝見た無防備な先輩の姿がフラッシュバックした。あんなに不器用で、あんなに真っ赤になって僕を頼ってくれた人を、ここで終わらせるわけにはいかない。


「……ぐ、ぅ!!」


僕は避けるのをやめた。あえて拳の軌道上へ踏み込み、肩でその衝撃を真っ向から受け止める。

バキッ、と嫌な音が肩に響く。激痛。視界が白くなる。けれど、僕は倒れなかった。そのまま冴さんの腕を、必死にクリンチ(抱きつき)で封じ込めた。


「……なっ!?」


「……辞めません。先輩が、あんなに一生懸命……僕を、鍛えてくれたんだから。……僕は、先輩の隣にふさわしい男に、なるんです……っ!」


耳元でそう言い放つと、冴さんの動きが止まった。

数秒の沈黙の後。


「……ふん。暑苦しいわね」


冴さんは呆れたように溜息をつき、僕を突き放した。ちょうどその時、朝の終わりを告げる遠くの時計台の鐘が鳴った。


「タイムよ。合格とは言わないけれど、及第点。凛、貴方のパートナー、根性だけはあるみたいね」


「……あ、姉さん」


凛先輩が駆け寄ってくる。

彼女の瞳には、不安と、安堵と、そして僕への隠しきれない熱い視線が混ざり合っていた。


「……佐藤君。……バカ、無茶しすぎだ!

肩、見せてみろ! 湿布だ、氷だ、いや、私の『愛のリカバリー』が必要だ!」


先輩に抱えられながら、僕は冴さんを見た。彼女は海を見つめながら、ポツリと独り言を漏らした。


「……恋愛教本第50章。『ボロボロになって守ってくれた男に、女は二度と逆らえなくなる』。

凛、貴方の負けね」


「姉さん、それ私のノート勝手に見ただろ!!」


波打ち際に先輩の絶叫が響き渡る。

僕の肩は激しく痛んだけど、先輩の腕の温かさが、何よりも心地よい報酬だった。

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