第14話 無防備な防御(ノーガード)は、朝焼けの終わり

「……ん」


微かな潮騒の音に混じって、部屋の片隅にある柱時計が午前四時を告げた。畳の上に敷かれた布団の上で、僕はゆっくりと意識を浮上させる。民宿『潮騒荘』の朝は早い。網戸越しに入ってくる空気は、昼間の熱気を忘れたようにひんやりとしていた。

ふと、屏風の隙間に目をやる。昨夜、先輩が僕の手を握り、あの『約束』を交わした境界線だ。


「……先輩、まだ寝てるよな」


なんとなく気になって、僕はそっと屏風の隙間を覗き込んだ。

そして、その瞬間に心臓が跳ね上がった。

そこには、普段の凛々しい姿からは想像もつかないほど無防備な氷川先輩がいた。


激しい寝返りを打ったのだろうか。

浴衣の合わせが大きくはだけ、片方の肩が露わになっている。鎖骨のラインから、ボクサーとして鍛え上げられたしなやかな腹筋の一部までが、朝日を浴びる前の薄暗い光の中に浮かび上がっていた。


「……っ」


慌てて目を逸らそうとしたが、視線が釘付けになってしまう。いつもは拳の届く距離をあんなに厳格に守っている先輩が、今は完全にノーガードだ。

スッと通った鼻筋、長く伸びた睫毛。眠っている彼女は、恐ろしいほどの美少女だった。


その時、先輩の睫毛が震えた。


「……ふぁ……さ、佐藤、君……?」


先輩が、重たそうな瞼を持ち上げる。視線が、屏風の隙間から覗き込む僕と、まっすぐにぶつかった。


一秒。二秒。


先輩はぼんやりとした頭で自分の状況を確認し――そして、はだけた胸元と僕の視線を交互に見た。


「…………ッ!!!」


爆発するかのような赤みが、一瞬で彼女の顔を支配した。


「み、みみみ、見たな!? 貴様、今の不意打ち……私の、その、最大級の恥部を……ッ!」

「ち、違います先輩! 寝相が悪くて、その、つい!」

「言い訳無用! これは恋愛教本第40章『不可抗力による露出』……ではない! ただの私の失態、いや、君の……変態行為だ!」


先輩はシーツを抱え込むようにして丸まり、真っ赤な顔で僕を睨みつける。

その瞳は、怒りというよりも、今にも泣き出しそうなほどの羞恥に揺れていた。


「……死ぬ。私は今、ここで恥死(はずかし)という名のノックアウトを……」


「――朝っぱらから、ずいぶんと騒がしいわね。凛」


冷ややかな、しかし凛とした声が部屋の入り口から響いた。いつの間にか襖が開いている。

そこに立っていたのは、凛先輩によく似た鋭い目つきをしながらも、圧倒的に洗練された美しさを放つ女性だった。


「……あ、姉さん!?」


先輩が弾かれたように飛び起きた。はだけた浴衣を必死に押さえながら。

生徒会長にして、凛先輩の姉――氷川 冴(ひかわ さえ)が、冷徹な視線で僕を射抜く。


「……なるほど。合宿という名の名目で、下級生に自分の醜態を晒していたわけ。挙句の果てに、そんな情けない顔で赤面して。氷川家の名が泣くわね」


「ち、違うんだ姉さん! これは不慮の事故で……!」


「黙りなさい。……そこの貴方。私の妹の『無防備な姿』を、随分と堪能したようね?」


冴さんの視線が僕に突き刺さる。

それは物理的な重圧を伴う、プロのボクサーにも似た鋭い眼光だった。


「ひ、氷川冴さん……」


「貴方が凛の言っていた『パートナー』?

笑わせないで。今の状況、客観的に見ればただの不純異性交遊よ。凛、荷物をまとめなさい。

こんな合宿、今すぐ中止。この少年については、私が直々に『再教育』してあげるわ」


平和な合宿の朝は、最強の姉という名の審判の乱入によって、最悪のサバイバルへと変貌を遂げようとしていた。

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