第13話 熱帯夜の精神鍛錬(リミット解除)は、ガード不能

ビーチバレー大会という名の実践演習を終えた僕たちを待っていたのは、民宿『潮騒荘(しおさいそう)』での予想だにしない試練だった。


「……あの、先輩。話が違う気がするんですが」

「……不測の事態だ。格闘家たるもの、リング外のトラブルにも迅速に対応せねばならん」


先輩は、手にしたうちわを猛烈な速さで仰ぎながら、顔を真っ赤にして言い放った。

原因は、この民宿の古びたエアコンの故障、そして折悪しく重なった地元の祭りの影響による部屋の空きなしというダブルパンチだ。

結果、僕と先輩は、大広間を屏風で仕切っただけの『実質的な同室』で一夜を過ごすことになった。


「いいか佐藤君。これは精神鍛錬(メンタル・トレーニング)だ。

至近距離に異性がいるという極限状態において、いかに平常心を保ち、心拍数を一定に維持できるか。

……いわば、心のシャドーボクシングだな」


「先輩の仰ぐスピード、全然平常心じゃないですよ」


畳の匂いと、網戸越しに入ってくる潮騒の音。

夜になっても気温は下がらず、扇風機が首を振る音だけが虚しく響いている。

僕は屏風の向こう側、わずか数メートルの場所に、薄い浴衣姿になった先輩が寝転んでいるという事実に、喉の渇きが止まらなかった。


「……佐藤君。起きているか」


「……はい。暑くて、なかなか」


「……少し、話をしてもいいだろうか。教本によれば、夜の静寂(しじま)は『自己開示(カミングアウト)』に最適な時間だとされている」


屏風の向こうで、衣擦れの音がした。

先輩がこちらを向いた気配がする。


「私はさ……。ずっと、拳の中にしか真実はないと思って生きてきた。打てば響く、避ければ当たらない。そんな単純な世界が心地よかったんだ」


先輩の声は、昼間の凛々しさとは対照的に、波に洗われる砂のように脆く、柔らかい。


「でも、君と出会ってから、私の世界は『判定不能』なことばかりだ。胸が苦しくなったり、視線を合わせられなくなったり……。これは、ボクシングのどの教本にも載っていない『状態異常』なんだ」


「……先輩」


「正直に言うよ、少年。……私は、今の自分をどう制御していいか分からなくて、怖いんだ。

……もし、この『ときめき』という名のラッシュが止まらなくなって、私が私でなくなってしまったら、君は……」


その時、近くの浜辺で打ち上げ花火が上がった。

ドーンという腹に響く音。網戸越しに、七色の光が部屋を短く照らす。光の中に浮かび上がったのは、屏風の隙間からこちらをじっと見つめる、先輩の濡れたような瞳だった。浴衣の胸元が少し乱れ、その下で激しく上下する呼吸。


「……君は、私を止めてくれるか?」


僕は、自分の心臓がかつてないほどの早鐘を打っているのを感じた。

これはもう、トレーニングとか、教本の戦略とか、そんな次元の話じゃない。

僕は体を起こし、屏風の隙間に手をかけた。


「止めませんよ」

「……っ」


「先輩が先輩でなくなっても……。どんなにめちゃくちゃな理論を言い出しても、僕は全部受け止めますから。それが、僕の『スパーリングパートナー』としての仕事ですから」


花火の光が消え、再び暗闇が訪れる。

沈黙の中で、先輩が小さく、でもはっきりと息を呑む音が聞こえた。


「……バカか、君は」


先輩の声は震えていた。


「そんな……ノーガードの告白(言葉)を投げられたら、私の右(本音)は……もう、隠しようがないじゃないか」


ガサリ、と音がして、先輩の手が屏風のこちら側に伸びてきた。

暗闇の中で、迷うように泳いでいたその手が、僕の指先に触れ、そして――力強く握りしめられる。


「……今夜は、このまま繋いでいろ。

これは感情の漏洩を防ぐためのシール(封印)だ。反論は認めない」


先輩の手は驚くほど熱く、そして、どんなグローブよりも優しく僕を繋ぎ止めていた。

屏風越しに伝わってくるのは、彼女の一定ではない、不器用なほどに乱れた鼓動の律動。

教本に頼り、格闘技の言葉に置き換えなければ何も伝えられなかった『孤高の女帝』は、今、暗闇の中でただ一人の少女として僕の隣にいた。


「……佐藤君」

「はい」


「……明日も、私の隣で、誰よりも速くステップを踏め。置いていったら、ただじゃおかないからな」


夏の夜風が、二人の火照った体温をわずかに掠めていく。波音(ゴング)と共に始まったこの合宿は、砂浜に刻まれた足跡よりも深く、消えない『本音』を二人の心に刻みつけてしまったようだった。

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