第12話 夏の扉(ゴング)は、波打ち際で鳴り響く
「いいかい佐藤君。夏とは、格闘家にとって『心肺機能』と『忍耐力』を試される過酷なシーズンだ。
……そして恋愛教本によれば、男女の距離が最も急速に接近する『バースト・シーズン』でもある」
期末テストを終えた直後の放課後。凛先輩は、ボクシング部の部室で一枚のチラシを机に叩きつけた。
そこには、青い海と白い砂浜、そして『市民ビーチバレー大会・ペアの部:優勝賞品は高級スポーツドリンク一年分』という文字が踊っている。
「……先輩。まさかこれに出るんですか?」
「当たり前だ。部の予算は神宮寺との一件で削られたままだからな。それに、砂浜での運動は足腰を鍛えるのに最適だ」
先輩は腕を組み、不敵に笑う。
しかし、その耳元がわずかに赤い。
彼女の手元にある教本のページには、『夏、水着、吊り橋効果の極致』という付箋がびっしりと貼られていた。
「というわけで、明日から一泊二日で海へ遠征(合宿)に行く。準備を怠るなよ」
そして翌日。
僕は、眼前に広がる水平線と、それ以上に眩しい光景に言葉を失っていた。
「……お待たせ、佐藤君。その、砂浜での動きやすさを最優先した結果、このような装備(スタイル)になったのだが……どうだろうか」
更衣室から現れた先輩は、黒のスポーティなビキニに、白いラッシュガードを羽織っていた。
いつもジャージや制服で隠されていた、ボクサーらしい引き締まった腹筋、しなやかな脚のライン、そして何より、眩しいほどの白い肌。
「……あ。……あの、すごく、似合ってます」
「……ッ! そ、そうか。今の発言は『不意打ちのボディブロー』として記録しておく。
……さあ、見とれていないで練習だ!」
先輩は顔を真っ赤にして、バレーボールを僕の顔面に軽くぶつけてきた。
特訓の内容は、ボクシングとビーチバレーを融合させた(先輩いわく)最先端のトレーニングだった。
砂に足を取られながらのフットワーク。波打ち際でのシャドーボクシング。そして、ボールをパンチングでレシーブするという無茶苦茶なラリー。
「いいか佐藤君、この砂の不安定さこそが、恋の不安定さ……つまり『駆け引き』のメタファーなんだ! 踏ん張りが効かない時こそ、体幹(本気)で支えるんだ!」
「先輩、理屈がめちゃくちゃですよ!」
夕暮れ時。ヘトヘトになった僕たちは、波の音を聞きながら砂浜に腰を下ろした。
水平線に沈む太陽が、先輩の濡れた髪をオレンジ色に染め上げる。
「……佐藤君。正直に言う。……私は、怖かったんだ」
不意に先輩が静かな声を出した。
いつもの勢いはなく、波の音に溶けてしまいそうな、か細い声。
「神宮寺に勝って、部を守れて……でも、もし君が『もう十分だ』と言って、私のスパーリングパートナーを辞めてしまったらと」
先輩は自分の膝を抱え、僕の方を見ようとしない。
その指先は、砂を弄んでいる。
「私は教本を読まないと、君との距離の測り方すら分からない。拳の届かない距離での会話は、いつだって私の『ガード』を無効化する。……私は、弱いボクサーだ」
「先輩……」
僕は、そっと彼女の隣に手を置いた。
触れるか触れないかの距離。
砂の熱と彼女の体温が混ざり合う。
「辞めませんよ。僕は、先輩の右ストレートが世界で一番かっこいいと思ってるんですから。
……それに、まだ『教本』、半分も終わってないんでしょ?」
先輩はハッとしたように僕を見つめた。
その瞳に、夕日の反射ではない、熱い光が宿る。
「……ああ。そうだな。まだ『初級編』すら終わっていない。……よし、佐藤君! 決めたぞ!」
先輩は勢いよく立ち上がり、砂を払った。
その顔には、いつもの――いや、これまでで一番晴れやかな『女帝』の笑みが戻っていた。
「今夜は合宿の特別メニューだ! 『キャンプファイヤーを囲んでの、心理的接近戦(ガールズトーク)』を執り行う! 私のノートに記された、君への質問300項目にすべて答えてもらうからな!」
「300!? 勘弁してくださいよ!」
夏の夜風が二人の笑い声を攫っていく。
波音(ゴング)と共に始まった第二章は、砂浜に刻まれた二人の足跡のように、深く、熱く、刻まれていく。
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