第11話 愛と鉄拳の境界線(ボーダーライン)

武道場の空気は、佐藤君が挙げたジャイアントキリングによって一変していた。

どよめく空手部員たちの動揺を切り裂くように、氷川凛が静かにマットの中央へと進み出る。

その足取りは、まるでリングへ向かう王者のように揺るぎない。


「……信じられないな。あの雑魚が石川を倒すとは」


神宮寺が道着の帯を締め直し、不快そうに舌を鳴らす。そして歪んだ笑みを浮かべ、凛の正面に立つ。


「だが、これでいい。条件は覚えているね?氷川? 負ければボクシング部は廃部。君は僕のものだ」


「言葉が過ぎるぞ、神宮寺。私は誰のものでもない。……強いて言うなら、私は、私の信じる『拳の道』のものだ」


凛はそう言い放つと、ボクシングの基本姿勢――ではなく、わずかに腰を落とし、両手を前後に開く独特の構えを取った。この一週間、佐藤君に空手対策を教える中で、彼女自身もまたボクシングという枠を超えた境地に達していた。


「始めッ!」


審判の合図が轟くと同時に、神宮寺が動いた。


『空手界の貴公子』の異名は伊達ではない。

彼の放った前蹴りは、目にも留まらぬ速さで凛の腹部を捉えようとする。

しかし、凛はそれを紙一重でかわさない。

あえて半歩踏み込み、肘でその蹴りを受け流す。


「なに……っ!?」


「空手の距離、空手の呼吸。一週間、佐藤君を相手に徹底的に叩き込んだ。今の私にその突きは届かない」


凛の反撃が始まる。

シュッ、シュッ! と鋭い呼気と共に、目にも留まらぬ連打が神宮寺を襲う。

それはボクシングのジャブではない。掌底や手刀を織り交ぜた、即興の近接戦闘術。


「恋愛教本第25章にはこうある。『相手の期待を裏切るギャップこそが、心を揺さぶる最大の武器になる』と! 私がボクシングしかできないと思っていたなら、その慢心が君の敗因だ!」


「ふざけるなッ! 暴力女が愛を語るな!」


神宮寺が逆上し、渾身の上段突きを放つ。

その威力は凄まじく、まともに喰らえば意識が飛ぶ。

佐藤君が「先輩!」と悲鳴のような声を上げた。

だが、凛の瞳は冷静だった。

彼女はノートに記した自分自身の言葉を思い出していた。


――『恋愛とは、互いの弱点を晒し合う競技だ』


彼女はあえて、ガードを下げた。

無防備な顔面に神宮寺の拳が迫る。空手部員たちが勝利を確信したその瞬間、凛は首をわずかに傾け、拳の勢いを殺しながらその衝撃を受け流した。


そして。

神宮寺の懐が、これ以上ないほど広大に空いた。


「神宮寺。君の拳には、相手を倒したいという『エゴ』しかない。……佐藤君の拳には、私を助けたいという『体温』があった」


凛の右拳がゆっくりと、しかし確実に引き絞られる。それは、彼女が人生で数万回、数十万回と繰り返してきた動作。恋愛本に頼るまでもなく、彼女の魂に刻み込まれた、最高傑作の一撃。


「教えてあげるよ。これが、私の本当の――本音(ストレート)だ!!」


ドォォォォン!!

武道場全体が震えるような衝撃音。

凛の右拳は、神宮寺の胸板を正確に、そして深く捉えた。神宮寺の体は木の葉のように舞い、後方の壁まで吹き飛ぶとそのまま崩れ落ちてピクリとも動かなくなった。


沈黙。

誰もが言葉を失う中、凛はゆっくりと拳を下ろし、乱れたポニーテールを整えた。

その目は、壁際の神宮寺ではなく、マットの端で呆然と立ち尽くす一人の少年に向けられていた。


「……佐藤君。見たか」

「……はい。すごかったです。……かっこよかったです、先輩」


その言葉を聞いた瞬間。神宮寺を粉砕したあの恐るべき女帝の顔は、一気に霧散した。

凛は顔を真っ赤に染め、バンテージを巻いた手で口元を隠しながら、ふいっと視線を逸らす。


「……そ、そうか。ならいい。……判定は、言うまでもないな」


彼女は震える声で審判に勝利を促すと、足早に佐藤君のもとへ歩み寄った。

そして、周囲に聞こえないほどの小声で囁く。


「……佐藤君。帰りに、例の猫カフェに寄るぞ。

さっきの衝撃で、私の『ときめき(心拍数)』が、またオーバーヒート気味なんだ。……君が、責任を持って鎮静(クリンチ)しろ。いいな?」


「……はい、喜んで」


ボクシング部の存続は決まった。

けれど、二人の『恋愛特訓』という名の本戦は、ここからさらに激しさを増していくことになりそうだった。

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