第8話 宣戦布告は、ベルが鳴る前に
「……おはよう、佐藤君」
翌朝。学校の廊下で鉢合わせた先輩は、いつになく普通だった。ポニーテールは完璧な角度で結ばれ、制服にシワ一つない。ノートを読まれたあの夜の今にも崩れ落ちそうな脆さはどこにも見当たらない。
だが、僕が近づくと、彼女のステップがわずかに乱れたのを僕は見逃さなかった。
「あ、おはようございます、先輩。体調はもう万全です」
「ふむ。リカバリーに成功したようだな。……昨夜の、その、国家機密については――」
「あ、はい。忘却(アンインストール)済みです」
「よろしい。ならば、今日の放課後は……」
先輩が練習という言葉を口にしようとした、その時。
「――残念ながら、今日の放課後、彼女に時間は残されていないよ」
廊下の向こうから、不気味なほど爽やかな声が響いた。生徒会副会長、神宮寺蓮。その後ろには、威圧感のある道着姿の男たちが数人控えている。
「神宮寺……。また不意打ちか。君はいつから待ち伏せ専門のボクサーになったんだ?」
「失礼な。これは『正当な行政執行』だよ、氷川。……これを見たまえ」
神宮寺が差し出したのは、一枚の公式な書類。
そこには『武道場・および部室使用権の再編について』と書かれていた。
「ボクシング部の部室は、来月から空手部の『第二備品庫』にすることが決定した。
……ただ、僕も鬼じゃない。氷川、君と……そうだな、その『冴えない彼』が、僕たちの提示する条件をクリアすれば、再考してあげてもいい」
神宮寺が歪んだ笑みを浮かべて、僕を指差す。
「条件?」
「今週末、空手部とボクシング部の『親善交流試合』を行う。ルールは空手。氷川、君が僕に勝てば、廃部案は白紙だ。……ただし」
神宮寺は、僕の方へ一歩踏み出した。
「君が負けたら、ボクシング部は解散。
そして君は、僕の専属マネージャーになってもらう。もちろん、その少年は追放だ」
廊下の空気が凍りついた。
周囲の生徒たちも足を止め、固唾を飲んで事の成り行きを見守っている。
「……私を、賭けの対象にするというのか?」
凛先輩の声が、低く地を這うような怒りに染まる。
彼女の拳が、みしり、と音を立てて握られた。
だが、神宮寺は動じない。
「嫌なら断ってもいいんだよ? その瞬間、部室の鍵を没収するだけだからね」
「……受けよう」
答えたのは、先輩ではなかった。
僕が、先輩の前に一歩踏み出していた。
「佐藤君!?」
「先輩。僕のせいで部がなくなるのは、絶対に嫌です。……神宮寺先輩、その試合、僕も出してください。空手部の新人相手でいい。僕が勝ったら、部室に二度と手を出さないと約束してください」
「ハッ! 面白い。雑魚が一匹増えたところで結果は変わらないが……いいだろう、受けて立つよ」
神宮寺たちは、高笑いを残して去っていった。
静まり返った廊下で、凛先輩が僕の肩を掴む。
その手は、少し震えていた。
「バカか君は! 空手ルールだぞ!? 蹴りも、投げも、突きもある。ボクシングの防御(ガード)だけでは通用しない!」
「……でも、先輩をあんな奴のマネージャーにするわけにはいきません」
僕は、先輩をまっすぐに見つめた。
先輩は一瞬だけ呆然とした顔をしたが、やがて、観念したように深い溜息をついた。
「……いいだろう。一週間、地獄を見てもらうぞ。恋愛教本には書いていなかったが、これが『愛する者のために戦う』というシチュエーションなら私のコーチングは、世界一厳しいからな」
先輩の瞳に再び鋭い光が宿る。
廃部を賭けた、負けられない戦い。
僕と先輩の『本戦』が、今、最悪の形で幕を開けた。
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