第7話 落とし物は、攻略本(ノート)より重い
嵐が去った後のような静けさの中、僕はベッドの上で一人、呼吸を整えていた。先輩が作った特製粥の効果か、それとも彼女の熱量に当てられたのか、体中の節々の痛みが嘘のように引いている。
「……ん?」
ふと、枕元に視線を落とすと、そこには一冊のB5サイズのノートが残されていた。
使い古された表紙には、殴り書きのような力強い筆致でこう記されている。
『必勝! 恋愛戦略ノート(兼・対佐藤悠真戦 備忘録)』
「……これ、見ちゃダメなやつだ」
頭では理解している。だが、昨日の看病で先輩が見せたあの切ない表情が、僕の好奇心に右フックを叩き込んできた。僕は唾を飲み込み、震える手でその禁断のページをめくった。
○月×日:斥候(スカウティング)
ターゲット:佐藤悠真。
印象:ガードが甘い。草食動物のような目。だが、私のステップ(会話)に動じない不思議な体幹の強さを感じる。
○月△日:クリンチ(手繋ぎ)試験
手の温度が異常に高い。こちらの心拍数が急上昇。これは「カウンターによる脳震盪」に近い症状だと思われる。恋愛教本によれば、これを『ときめき』と呼ぶらしい。要検証。
○月□日:相合傘(ダブルス)の実践
彼が私の肩を抱いた。あの時の私は、完全に足が止まっていた。ボクサーとしてあるまじき失態だ。
しかし……嫌ではなかった。
彼の背中が濡れているのを見た時、私の胸に走った衝撃。これは「嫉妬」でも「怒り」でもない。
もっと重く、深い――。
「……先輩」
読み進めるうちに、僕の顔は粥の熱さとは別の理由で熱くなっていった。
そこには、僕との何気ない会話や、僕が気づかなかった小さな出来事が、格闘技用語を交えながらも、驚くほど繊細に記録されていた。
最後の方のページには、走り書きでこうあった。
『課題:彼の笑顔を直視すると、私のガードが完全に下がる。早急な対策が必要。あるいは――諦めて、クリーンヒットを受け入れるべきか?』
「……っ!」
パタン、とノートを閉じる。
心臓の音がうるさくて、熱がぶり返しそうだ。
先輩は、あんなに不器用な言葉を吐きながら、裏ではこんなにも僕のことばかり考えていたのか。
その時、再びインターホンが鳴った。
さっきの連打とは違う、控えめだが焦りの混じったリズム。
「さ、佐藤君! まだ起きてるか!? 忘れ物だ! 非常に重要な、国家機密レベルの忘れ物をした!」
ドアを開けると、そこには顔を真っ赤にし、肩で息をする先輩が立っていた。
視線が僕の手にあるノートに注がれる。
「あ……」
「……見たか?」
先輩の声が震えている。
彼女の拳が心なしか弱々しく握りしめられていた。
「どこまで見た、佐藤君。……第何ラウンドまで読み進めたんだ」
「ええと……『ときめき』の検証のあたりから……最後まで」
一瞬の沈黙。
先輩の顔が、これまでのどのスパーリング後よりも赤く、熟しきったトマトのようになった。
「……死ぬ。私は今、ここで恥死(はずかし)という名のノックアウトを喫する」
「先輩、待ってください! 捨て身のタックルはやめてください!」
先輩はガクガクと膝をつき、そのまま僕の胸元に顔を埋めるようにして崩れ落ちた。
「……もう、無理だ。あんな恥ずかしい独り言を読まれて、どうやって君の前に立てというんだ。
私の……私の恋愛ボクシングは、ここで完全敗北だ……」
先輩の頭から、ふわりとシャンプーの香りが漂う。
ノートに書かれていた彼女の本音が、僕の中に重く、優しく沈み込んでいく。
「先輩。負けじゃないですよ」
僕は、自分でも驚くほど自然に、彼女の背中に手を回した。
「判定なら……僕の完敗です。こんなに想われてて、気づかなかった僕の負けです」
先輩の体が、腕の中で小さく震えた。
夕暮れの部屋。病み上がりの僕と、不器用な女帝。
10万文字を優に超えてしまいそうな僕たちの『恋の特訓』は、ここから本当の『本戦』へと突入しようとしていた。
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