第9話 密着指導(クリンチ)は、地獄の門出

「……先輩、もう一歩も動けません」


放課後の部室。

僕はリングのマットに大の字になっていた。

神宮寺への宣戦布告からわずか三時間。僕を待っていたのは、先輩による『対空手用・特別検問』という名の、あまりにも過酷なシロモノだった。


「立て、佐藤君。神宮寺の突きは、ボクサーのジャブより重く、直線的だ。それを見切ることができなければ、君の肋骨は一分持たずに粉砕されるぞ」


先輩は道着こそ着ていないが、いつものジャージの袖をまくり上げ、鬼の形相で僕を見下ろしている。


「いいか、空手の間合いはボクシングより一歩遠い。だが、踏み込みのスピードは速い。これを見ろ」


先輩が不意に僕の顔面スレスレに足を振り抜いた。

空気を切り裂く風切り音。


上段回し蹴り。

ボクシングにはない、高い軌道からの打撃だ。


「……ッ、今ので死ぬかと思いました」

「死なせないさ。……私が、君を守るために鍛えるんだからな」


先輩はふと、視線を外して呟いた。

その頬が、少しだけ赤く染まる。


「恋愛教本第18章によれば、『共通の困難に立ち向かう男女は、吊り橋効果により絆が爆発的に深まる』とある。……この特訓は、部の存続と同時に、私たちの……その、親密度を上げる戦略的プロセスでもあるんだ」


「……この状況でまだ教本を参考にしてるんですか」


「当たり前だ。私は常に冷静だ。……ほら、次は『密着状態からの離脱』の練習だ。構えろ」


先輩が僕の懐に飛び込んできた。

グイと胸元を掴まれ、互いの体温がダイレクトに伝わる。昨日の看病の時とも、相合傘の時とも違う。戦う者の、熱く、激しい鼓動。


「空手部員が組んできたら、こうして……脇を締めて、相手の重心を……」


先輩の解説が止まる。

至近距離で、僕と先輩の視線が絡み合った。

彼女の吐息が僕の首筋にかかり、ポニーテールから立ち上る汗の香りが鼻をくすぐる。


「……あ」

「……」


先輩の腕の力が徐々に抜けていく。

教本の戦略通りなら、ここで絆が深まるはずなのだが、今の僕たちを支配しているのは、ただの猛烈な照れだった。


「……あ、あの、先輩。近いです」

「……わ、分かっている。これは『クリンチ』の技術確認であって、決して、君の胸板が意外と厚いとか、そういう感触を確かめているわけでは……!」


先輩は弾かれたように僕から飛び退いた。

そして、壁にかかったサンドバッグを八当たりのように猛連打し始める。


「佐藤君! 今の接近戦は、私の『動揺』により無効だ! 走り込みに行くぞ! 山だ! 学校の裏山までダッシュ10本だ!」

「えええ!?」


結局、絆が深まる前に、僕の筋肉が千切れそうになるのが先だった。けれど、必死に坂道を駆け上がる僕の横で、時折心配そうに、そして嬉しそうに僕の顔を伺う先輩の瞳。


そこには、ノートに記されていた『独占欲』でも『嫉妬』でもない、確かな『信頼』が宿り始めていた。


「いいか佐藤君。週末、君が負けそうになったら私が乱入してでも助けてやる。

……だから、安心して全力でぶつかってこい」


夕暮れの山道。

先輩のその言葉は、どんな応援よりも僕の心に『右ストレート』並みの衝撃で突き刺さったのだった。

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