第6話 看病(リカバリー)は、愛のカウンターより手強い
「……はぁ、はぁ。……失敗した」
翌朝。僕は自室のベッドで、焼けるような喉の痛みと共に目を覚ました。
昨日の雨。先輩を庇って背中に浴びた水しぶきが、見事に僕のスタミナを削りきったらしい。
熱を測れば三十八度五分。
ボクシングで言えば、一ラウンド目から痛恨のダウンを喫したような状態だ。
「……休みます、って連絡しなきゃ」
震える手でスマートフォンを操作し、部活のグループチャット(といっても、僕と先輩の二人しかいないが)に欠席のメッセージを送る。
返信はすぐに来た。
『了解した。即座に「リカバリー(回復)」に専念せよ。敵(風邪菌)の侵入を許すとは、君の免疫(ガード)もまだまだ甘いな』
先輩らしい、ぶっきらぼうな激励。
それから数時間、意識が朦朧とする中で眠っていた僕を叩き起こしたのは、激しいインターホンの連打だった。
「……はい、どなたですか……」
「私だ! 氷川だ! 佐藤君、生きてるか!」
ドアを開けるなり、そこには制服の上にエプロンという、奇妙な格好の先輩が立っていた。
手には大きなレジ袋。中からはネギと、なぜか見慣れた銀色のプロテインシェイカーが覗いている。
「せ、先輩……どうしてここが?」
「名簿で調べた。……バカを言うな、パートナーの危機に駆けつけないセコンドがいるか!」
先輩は土足で上がり込まんばかりの勢いで僕をベッドへ押し戻すと、流れるようなフットワークで台所へと向かった。
「待っててくれ。恋愛教本第5巻『胃袋を掴むカウンター』の項目に従い、私が最高のリカバー飯を作ってやる」
「……料理、できるんですか?」
「格闘家は栄養管理も仕事のうちだ。
……ただし、包丁(ジャブ)の扱いは少し鋭すぎるかもしれんがな」
台所から、トントントントン! と、恐ろしく速いリズムの刻み音が聞こえてくる。
……あれはもはや調理ではない。まな板へのラッシュだ。やがて運ばれてきたのは、真っ赤なスープに、大量の刻みネギと……何かよくわからない粉末が浮いている代物だった。
「さあ、食え。私が考案した『氷川式・心肺機能強化粥』だ。ニンニク三片、ショウガ、そして特製プロテインを配合してある」
「……味が全く想像できないんですけど」
恐る恐る口に運ぶ。
……熱い。そして、驚くほど辛い。
けれど、出汁の味がしっかり効いていて、冷え切った体にじんわりと熱が染み渡っていく。
「……どうだ?」
「……美味しい、です。意外と」
僕がそう言うと、先輩は「フッ」と安堵したように息を漏らした。
そして、僕の額にそっと手を当てる。
その手は、昨日の雨の中と同じ、ひんやりとしていて、でもどこか優しい温度。
「熱いな。……君がこんなに熱を出したのは、私のせいだ。私がもっと早く、あの水しぶきを回避(ウィービング)していれば……」
「いいんですよ。僕が勝手にやったことですから」
先輩は俯き、僕の布団の端をぎゅっと握りしめた。
「……佐藤君。私は、戦うことしか知らない。
でも、君が弱っているのを見ると、どうしていいか分からなくなる。胸の奥が、重いボディブローを喰らったように苦しいんだ」
先輩のポニーテールが、力なく揺れる。
彼女にとって、この不安や心配という感情こそが、どんな強敵のパンチよりも恐ろしい未知の攻撃なのだろう。
「これは……何の特訓なんだ? 教本には、こんなに切なくなるなんて書いていなかったぞ」
僕は、先輩の震える手を、布団の中からそっと握り返した。
「……特訓じゃありませんよ、先輩。それが、多分――」
言葉の続きを言う前に、先輩が真っ赤な顔で立ち上がった。
「――っ! わ、分かっている! 『沈黙による心理的圧迫』だな! これ以上は私の防衛本能が持たん! 私は帰る! 明日までに治ってなかったら、次は『氷川式・氷風呂治療』を試すからな!」
嵐のように去っていく先輩。
静かになった部屋で、僕は握られた手の余韻と、ニンニクの匂いに包まれながら、少しだけ熱が下がったような気がした。
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