第5話 相合傘(ダブルス)の距離は、ワンステップで踏み込めない
「……最悪だ」
猫カフェのバイトを終えた僕たち。
待っていたのは、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨だった。
夕闇に沈む街路樹が激しい雨音にさらされている。
「先輩、傘持ってませんか?」
「……ボクサーは、雨など避ければいいと思っていた」
「無理ですよ。音速の拳は打てても、雨粒すべてをスウェーで避けるのは」
僕は溜息をつき、カバンから折りたたみ傘を一本取り出した。
一人用。それも、中学生の頃から使っている、少し小さめのやつだ。
「……一本しかないのか?」
「はい。駅まで、これで入るしかありませんね」
先輩の肩が、びくりと跳ねる。
さっきまで猫と戯れていた柔らかな空気はどこへやら、彼女は再び戦闘態勢のような鋭い目つきに戻っていた。
「ま、待て佐藤君。相合傘……。それは恋愛教本第12章に記された、『密着状態による心理的プレッシャー』を誘発する高度な戦術ではないか」
「ただの雨宿りです。ほら、入ってください。先輩が風邪を引いたら、部が存続できなくなります」
僕は傘を差し出し、彼女を招き入れた。
「……っ」
先輩が、おそるおそる傘の下に潜り込む。
必然的に僕たちの肩と肩が触れ合う距離になった。
雨の冷たさとは対照的に、先輩の体温が伝わってくる。彼女の白いブラウスが、湿った空気のせいで少しだけ肌に張り付いていた。
「……近い。近すぎるぞ佐藤君。これは完全にインファイトの間合いだ。私のパーソナルスペースが、君の存在に侵食されている」
「そんなに嫌なら、僕が濡れて帰りますけど」
「ダメだ! ……君が倒れたら、私の練習相手がいなくなるだろう」
先輩は僕のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。
猫カフェで猫を撫でていた時と同じ、少し震える指先。街灯の光が雨粒を反射して、銀色のカーテンのように僕たちを包んでいる。
傘という小さな屋根の下、外の世界の騒音は遠のき、聞こえるのは雨音と先輩の少し早い鼓動だけ。
「……佐藤君」
「はい」
「……不思議だ。こんなにガードを下げて、無防備な距離に他人がいるというのに、なぜか右が出ない。……いや、出したくない」
先輩の声は、雨音に溶けてしまいそうなほど小さかった。彼女は僕の顔を見ようとせず、ひたすら前方の水たまりを見つめている。
「恋愛とは、互いの弱点を晒し合う競技なのかもしれないな。ボクシングとは、正反対だ」
その時、横を通り過ぎた車が大きな水しぶきを上げた。
「あ、危ない!」
僕は反射的に先輩の肩を抱き寄せ、自分の背中で水を防いだ。バシャッという音と共に、僕の制服の背中がぐっしょりと濡れる。
「……っ、佐藤君! 大丈夫か!?」
「大丈夫です。先輩こそ、濡れてませんか?」
顔を覗き込むと、そこには驚愕に目を見開いた先輩の顔があった。
僕の腕の中、至近距離で、彼女の瞳が揺れている。
「今の……見事な『ブロッキング』だった」
「……そうですか?」
「ああ。……だが、困ったな」
先輩は、僕の腕から離れようとせず、むしろ自分から少しだけ僕に寄りかかってきた。
「今の防御(ブロッキング)で、私の心は完全に『ダウン』を奪われたようだ。……駅に着くまで、このまま、離れることを禁ずる」
傘を握る僕の手に、先輩の温かい手が重なる。
二人の歩調が、ゆっくりと重なり合う。
雨の日の相合傘。それはどんな強烈な一撃よりも、僕たちの距離を静かに、確実に縮めていた。
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