表出

ここは、診察室(診断室)とは違って、明るく温かな空間だった。

病院とは、到底思えない。


先ほどの女性は、カウンセラーだったようだ。

名前は、花村 灯さんと言うらしい。


今は、飲み物を用意してくれている。

辺りには、香ばしいお茶の香りが、静かに広がってきた。


花村先生は目の前に玄米茶を置き、静かに椅子に腰掛けた。


「相原 秀雄さん。どうぞよろしくお願いします。

温かいうちに、お茶を召し上がってくださいね。」


彼女の声は優しく、身体の奥の方までよく届く。

鳩尾のあたりが温かく感じるのは、きっとお茶のせいだけではない。


しばらくの間、花村先生は微笑みながらこちらを見ていた。

しばらくお茶を啜る。

すると、素直な言葉が自分の口からするりと滑り落ちていく感覚があった。


「咳で途中、話せなくなるかもしれませんが……すみません。

もう二年以上、この咳に悩まされています。

夜も、ぐっすり眠ることができなくて……。」


「それはお辛いですね。

咳は体力を使いますし、今の時代、

咳をしているだけで周りに気を遣ってしまいますよね。

感染症の病気なのかと思われてしまいますね。」


「……感染症。周りの目……」


何かが引っかかった。


「そうですよね。私は感染症ではありません。

でも…

頭の中ではずっと、

自分は感染症なんじゃないか、

周りの人にうつしてはいけない、

そんなふうに考えてしまっていた気がします。

周りの目が、気になって……。」


「それでは心も休まらなかったですね。」


「……! 

確かに、そうですね。

私はずっと咳が出ることで苦しくて、体力も削られて辛いと思っていました。

でも、今こうして考えてみると……

人の目を気にしなければならなかったことのほうが、よほど負担だったような気がします。」


花村先生は少し言葉をためてから、そっと口を開いた。

「……相原さんは、一人暮らしですか?」


「いえ、妻と二人で暮らしています。

でも……」


そこで彼は、寂しそうに視線を落とした。


「最初は、咳が気になって眠れないからと、妻は別の部屋に移りました。

そのうち、うるさいからと食事も一緒に取らなくなって……

今では、顔を合わせないように、私のことを避けているみたいです……」


相原さんは、長い間、身体の苦しさだけでなく、

社会の中でも、そして本来安らげるはずの家庭の中でも、自分の居場所を失っていたのだろう。


家族がいるのに、彼はずっと孤独だった。

そこに、霊の感情が重なっているように、私には思えた。


「相原さん。

これから私がいくつか質問をします。

その内容を、じっくり考えて答えなくて大丈夫です。

パッと頭に浮かんだイメージを、そのまま教えてもらえますか?」


「……? わかりました。」


咄嗟に首を傾げた相原さんは、

それでも言われた通りにしようと思ったのか、

椅子に深く座り直した。


「それでは、目を閉じてください。」


言われた通り、相原さんはゆっくりと深呼吸をしてから目を閉じた。


「あなたは今、どんな服を着ていますか?」


「……着物です。」


今日の自分の格好は、ベージュのスラックスにチェックのシャツだ。

それでも、頭に浮かんだのは――着物だった。


「そこは家の中ですか?」


「はい。でも、何もありません。

誰もいない… 一人です。」


目を閉じたまま首が小さく左右に揺れている。


「『労咳』

この言葉を聞いたことがありますか?」


「っ……!」


ガタン、と音を立てて、

相原さんの身体が何かに弾かれたように跳ねた。


ぎゅっと強く閉じられた瞼が、

そのあと、ゆっくりと開いていく。


「労咳……。」


それは、相原さんの奥底から引きずり出されたような声だった。

『労咳』その単語がきっかけでそのまま言葉がするすると繋がっていく。

そこにはもう、相原さんだけのものではない気配が、確かにあった。


「当時、周りで咳き込む人が増え、医者に見放された者たちは、いつしか一つの場所へ隔離されるようになりました。


長屋だったからでしょう。

病は、あっという間に広がっていき、

次々と、人が亡くなっていきました。


やがて、私も咳をするようになり、

気がついた時には――

私の子供も、同じように咳をしていました。


まだ、十分に大人の身体になる前でした。

そのせいか、症状は急激に重くなり、

子供は、あっという間に命を落としました。


妻は、その出来事を境に、心も身体も弱っていき、まるで後を追うように、亡くなりました。


私は、一人になりました。


それでも、すぐに死ぬこともできず、

労咳に罹った自分を、ただ、責め続けるしかありませんでした。


長く、苦しいだけの命が、だらだらと――

終わることもなく、続いていくまま……」


相原さんの中の声が、悲痛な記憶となって静かに流れ出す。

花村先生の声に導かれるように、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ解けていく。

そして、涙が静かに頬を伝った。


「辛く、苦しい想いを、ずっとされていたのですね。

一人で。

あなたのせいではないと言っても、

きっと、あなたの中には届かなかったでしょうね。」


花村先生の声が、ただそこに在る。

それだけで、心の内側が包まれていくのがわかった。


涙が溢れた。

肺に絡みついていた悲しみを、

ゆっくりと洗い流すように。


「もう、何も心配しなくてもいいんですよ。


どうか、その想いから、解き放たれてください。」


相原さんはただ、涙を流し続けた。


まだ完全に過去から解放されたわけではない。ただ、胸の奥の重さが少しずつ揺れ動き始めているのを、そっと感じ取った。


私は、相原さんのお茶を淹れ直すために静かに席を立った。


過去から解放され、これからも新しいことに出会ってほしい――そんな願いを込めて選んだのは、ルイボスティーとカモミールが優しく混ざり合ったお茶だった。カップから立ち上る香りは、温かく柔らかく、相原さんの胸にそっと届く。


「さっき買ってきたばかりのお茶です。ルイボスティーをご存知ですか?

カフェインが入っていないので、初めての方でも飲みやすいと思います。

少しカモミールも加えてあります。疲れた身体を癒してくれる、ほんのり甘いお茶です。


どうぞ。」


そう言って、私はカップを相原さんの前に置いた。


「どちらも、聞いたことのないお茶ですね。

いただきます。」


相原さんはそっとカップに口をつける。先ほどまで流れていた涙は、いつの間にか止まっていた。温かいお茶が身体の奥にゆっくりと染み込むのを、私は静かに見守る。


「はぁ、美味しいです。初めてです。こんなに香りのあるお茶は。」


微かに震える肩を見つめながら、相原さんの目の奥にちらりと光る、見えないもう一人の存在を意識する。私は、その存在に語りかけるように言葉を紡いだ。


「そうですね……。

相原さんは、これからもきっと、

こうして新しいものに出会い、

心が動く瞬間を重ねていけると思います。」


胸の奥に留まる気配に、

そっと語りかけるように言葉を続ける。


「笑ったり、驚いたり、

『美味しい』と感じたり。

そんな何気ない時間が、

この先も、何度も訪れます。」


少し間を置いて、静かに。


「もう、十分だったのではないでしょうか。

長い間、苦しかったですね。」


そして、祈るように。


「あなたも……もう、

自分を許していい。

ここから、解き放たれていいんですよ。」


その瞬間、

胸の奥にあった重さが、

ふっと、ほどける。


「ありがとう……。」


それは、

相原さんの声ではなかった。

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