第5話 帰宅後の生活機能不全
外の冷え込みは、山の上より残酷だった。
さっきまで浸っていたタクシーのぬくもりが、今の私には余計な毒。
心まで凍えさせていく。
一刻も早く風呂に入りたい。その一心で足が焦る。
しかし、凍結した路面はどこまでも容赦なかった。
ぐらりと視界が揺れ、必死に伸ばした手が冷たい電柱を掴んだ。
後頭部を打ち付けるのだけは、どうにか防いだ。
荒くなった息、耳の奥でうるさいくらいに早まった脈動。
しばらくの間、私は氷のような電柱に、幼子が母親にしがみつくように抱きついたまま、鼓動が落ち着くのを待った。
電柱は凍りついているのに、今の私の体温は、それ以上に奪われていた。
真っ白な塊だった呼気が、か細い白い線になるまで、私はただそこに立ち尽くしていた。 ――そして、幼子はベテランに戻った。
鍵をジャリっと突っ込み、「タン! 」と弾けるような音でロックを解除した。
空虚な心にロック解除音がいつまでも、反響しているように感じられた。
やっとのことでアパートのドアを開けた時、時計の針は四時を回っていた。
単身アパートの室内は、質素……いや、貧弱で、静まり返った空気があまりに寒々しい。
胸の奥がギュッとなるような、耐えがたい孤独に襲われた。
――外の方がマシに思えるほどの虚ろな部屋。
私は縋るような思いで風呂のスイッチを入れた。
しばらくして、部屋に「お風呂が沸きました」という、いつもと変わらない能天気なアナウンスが響く。
私は救いを求めるように服を脱ぎ捨て、浴室の扉を勢いよく開けた。
「――えっ? 何だよこれ! …どういうこと? ……! ……栓が! 栓を……してなかったのか! 」
(いよいよ焼きが回ってきた……何やってるんだよ。しっかりしろよ! ……仕方ないか)
――そこにあったのは、絶望だった。脱力感がひどくて、しばらく動けなかった。
湯気ひとつない、空っぽの浴槽。 栓を入れ忘れていたのだ。
冷え切った心と体を癒やすはずだった、大袈裟に言うと命の滴となるはずだったお湯は、一滴残らず排水口へと消え去っていた。
(水の流れる音、あれは上の階の住人がトイレに行ったからだと思っていた。……発生源は、俺の部屋かよ。お湯が流れる音を、他人事みたいに聞いていたなんて、マジで笑えない。自嘲しか出てこない……本当に、どうしようもない粗忽者だ。)
呆然と立ち尽くす……なんて悠長なことは言っていられない。
冷気は手加減なしに、私の剥き出しの肌から体温を強奪していく。
この寒さでシャワーだけなんて、差し迫った死の象徴だった。脅威でしかなかった。
私は震える手で、ベッドから毛布を剥ぎ取り、全裸の体に巻き付けた。
(妻が居れば、どんな顔で「大丈夫? 」って言ってくれただろうか……。フランクルは極限状態で妻の幻を見たらしいけど、今の私にはそんな余裕すらない。脳がミシミシと強張るような、嫌な感じがする。一刻も早く、今日の泥みたいな疲れを全部流して、とにかく一瞬でも早く、ただただ眠りたい……。)
全裸に毛布を羽織った、この世で一番惨めな姿で、私はもう一度「救い」が沸き上がるのを待つしかなかった。
栓をしたのかどうか、何度も執拗に念を押すように確認した。それでも、怖かった。
再び、「お風呂が沸きました」というアナウンスが流れた。
(今度こそ)
再び浴室に入る。視界は湯気に覆われた。
ようやく温かい湯船に沈み込み、十分に暖まった。全身に血が通っていく。
疲労が溶け出てくるような感覚。しかし、脳の強張りはとれない。
湯の温度が下がり始めていた。自動的に保温モードが作動していく。
浴槽から出て、頭と身体を洗うことに、勇気が必要だった。
慌ただしく全身から垢を落とし、ずっと浴槽に身体を沈め続けた。
最後の勇気を振り絞り、浴室から出た。
一気に身体から熱が空中に消えていく。
雑にタオルで肌を拭いた。何枚もバスタオルを使って、水分を体中から拭い去った。
就寝直前、既に時計の針は五時をずいぶんと回っていた。
私はスマホを手に取り、課長へメッセージを送った。
「やはり、今日は出勤できません。予定通り、今日は有給休暇にさせてください」
送信ボタンを押した後の記憶はない。
意識が深い闇に沈んでいく中、脳裏にふと、ある言葉が去来した。
これも、あの「夜と霧」だっただろうか。
「人間の精神の自由は、どんな状況であっても、決して奪われない」
ああ、そうだ。あんなところにいても、ヘラヘラ笑うのも、デリカシーを守るのも、そして今、この疲労の中で自分を笑い飛ばすのも、すべては私の自由なのだ。
……そうだ、こんな時間に風呂に入っても、誰も怒鳴り込んでこない。
広い意味で皆、同僚だから、察してくれているのだろうな。
ニュースになったし、皆、分かってくれているのだろう。
お互い様だからな……。
いろいろと面倒なこともある、古いアパートだけど、俺たちしか居ないということに、今夜はとても救われる気持ちがした。
私は泥のように眠った。
その日の正午頃、目覚めた。
幸い、身体の違和感はすっかり消えていた。
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