2話 勘当宣告と「青の救済」

 静寂は、耳鳴りがするほどに重かった。

 大講堂の天井から降り注いだ砂塵が、窓から差し込む斜光に照らされて、死の灰のように白く舞っている。

 レオニスは、冷たい石畳に膝をついたまま、動くことができなかった。

 右腕――いや、もはや「それ」を腕と呼ぶには無理があった。膨張し、異形の筋肉と血管の脈動を晒した「巨掌」は、聖女エレノアが放った白銀の拘束術式によって縛り上げられ、青白い火花を散らしながら沈黙している。

 だが、肉体的な拘束よりもレオニスの心を削ったのは、周囲を取り囲む無数の「眼」だった。

 つい先刻まで彼が支え、守ったはずの新入生たち。瓦礫の下から救い出された少年さえもが、震える足取りで後ずさり、怪物を見るような眼差しを彼に向けている。

 感謝はない。そこにあるのは、理解を超えた暴力的な力に対する、原初的な恐怖だけだった。


 「……道を開けよ」

 重厚な、そして感情を排した声が講堂に響き渡った。

 整然と並ぶ衛兵たちの列が割れ、一人の男が歩み寄る。

 ヴァルグレイヴ辺境伯、ガリアス。レオニスの実父であり、北方の魔境を武力で鎮める王国の「盾」と謳われる男だ。

 ガリアスの歩みには、一寸の揺らぎもなかった。彼は息子が救った瓦礫の山にも、怪我人にも目もくれず、ただレオニスの前に立ち止まった。

 アッシュブラックの髪、鋭い眼光。レオニスと瓜二つの容貌を持つその男は、跪く息子を見下ろし、冷徹なまでの静寂を纏っていた。

 「……無様だな、レオニス」

 「……父上……」

 レオニスの声は、掠れていた。右腕の熱が引くと同時に、全身を凍り付かせるような寒気が襲ってきていた。

 「我がヴァルグレイヴ家は、古来より王国の国境を預かり、秩序を乱す怪物を狩ることを本分としてきた。家門の誇りとは、即ちこの国の安寧を守るための礎である」

 ガリアスは、エレノアの拘束魔法を透かして見えるレオニスの巨掌を、値踏みするように、あるいは葬り去るべき敵を見るかのように一瞥した。

 「神聖なる星耀の石板を粉砕し、学園の安寧を汚した罪。……一族の使命に照らせば、貴様をこの場で処断することさえ厭わぬ。だが、それでは我が家門の汚点を晒し続けるに等しい」

 ガリアスの声は、講堂の隅々にまで届くよう、意図的に響かされた。これは対話ではない。周囲の「視線」を納得させるための、追放劇だった。

 「レオニス・ヴァルグレイヴよ。貴様を、我がヴァルグレイヴ家より永久に勘当する。家名は剥奪し、嫡男としての権利も、北方の領地へ立ち入る資格も、今この瞬間を以て消滅したと思え。……貴様という汚れは、我が一族が自ら拭い去る」

 宣告は、断頭台の刃のように正確で、非情だった。だが、ガリアスは一瞬だけ、レオニスの背後に控えていたミレイユへと視線を投げた。

 「……ミレイユ。貴様も行け。主が家門から切り離されるのであれば、その『後始末』もまた、近侍であった貴様の役目だ。二度とヴァルグレイヴの敷地を跨ぐことは許さぬ」

 その言葉は、ミレイユをも道連れにする酷薄な宣告に聞こえた。だが、レオニスは知っている。彼女が教会の認める精霊の加護ではなく、異端とされる「他国の神」からの祝福を宿していると見抜いた預言者の進言を受け、父が彼女を拾い上げた日のことを。レオニスの「代償」を癒せる唯一の楔である彼女を、父は敢えて「厄介払いの体(てい)」で息子に託したのだ。

 「……っ!」

 レオニスの視界が、一瞬だけ激しく揺れた。

 家門を守るための冷徹な切り捨てと、その裏に潜む、一族の血を引く者への歪んだ保護。

 「……ヴァルグレイヴ家の名は、私が汚したのではない。……最初から、貴殿らが守ろうとする『秩序』という小さな器に、私の魂が収まりきらなかっただけだ」

 レオニスは、父の意図を汲み取りながらも、反逆の意志を込めて低く笑った。

 「黙れ、異能の化け物が。……行け、二度と私の前に姿を現すな」

 ガリアスは背を向け、一度も振り返ることなく講堂を去っていった。その背中は、レオニスにとって、世界の半分を敵に回してでも、一族の使命を完遂しようとする男の凄絶な覚悟を示していた。


 「学園長。この少年の扱いは、教会の審問所に委ねるべきです」

 「いや、これほどの破壊力。魔法騎士団の監獄で厳重に封印すべきではないか?」

 ガリアスの去った講堂で、学園の関係者や教会の司祭たちが、レオニスの頭越しに「処分」を議論し始めた。その喧騒を一段高い場所から見下ろしているのは、カシウス枢機卿だ。彼は一言も発しない。ただ、愛弟子であるエレノアに、この理不尽な状況をどう「断罪」し、あるいは「救済」するかという問いを、無言の圧力で突きつけていた。

 聖女エレノアは、その師の視線を背中に感じながら、杖を握る指先を白く強張らせていた。

 「……星耀の秩序は、絶対です。この力は、あまりにも既存の理から逸脱している。……可哀想ですが、このまま野に放つわけには参りません」

 彼女のライトグレーの瞳には、神託が届かない焦燥を塗りつぶすかのような、義務感という名の氷が張り詰めていた。彼女にとって、レオニスを救うことは、神への背信と同義なのだ。


 だがその時、議論の喧騒を切り裂いて、澄み渡った鈴の音のような、しかし鋼の強靭さを秘めた声が響いた。

 「――滑稽ね。あなたたちは、救い主を監獄に送るのが、この国の『秩序』だと仰るの?」

 一同の視線が、再び一段高い教壇へと向けられた。

 第一王女セラフィナ・アルヴェリア。

 彼女はゆったりとした足取りで、瓦礫の山を越え、レオニスの側へと降りてきた。ロイヤルブルーの軍服調ドレスが、砂塵の中で鮮やかな彩りを放っている。

 「セラフィナ王女……。しかし、この力は危険です! 石板を粉砕したのですよ!」

 学園長が狼狽えながら声を上げる。

 「石板はまた刻めばいいわ。けれど、あそこで押し潰されるはずだった生徒たちの命は、二度と戻らない。……エレノア、あなたは聖女として、助かった命よりも、壊れた石板の方が重いと言うの?」

 「……それは、論理のすり替えです。力そのものの不浄さは、善行によって浄化されるものではありません」

 エレノアは一歩も引かず、セラフィナを見つめ返した。

 ロイヤルブルーと、ピュアホワイト。王権と教権。二つの巨大な意志が、レオニスの上空で激しく火花を散らす。


 セラフィナは、レオニスの前に跪いた。

 高貴な王女が、泥と埃に塗れた「怪物」の前に身を屈める異様な光景に、講堂は再び静まり返った。

 「……名前を。剥奪される前の名前ではなく、あなたの魂の名前を教えて」

 セラフィナのサファイアブルーの瞳が、レオニスの深いグレーの瞳を真っ直ぐに射抜いた。

 「……レオニスだ」

 「そう。レオニス、顔を上げなさい。あなたは今、家を失い、身分を失い、世界から敵意を向けられている。……けれど、その右腕は、まだ私を傷つけてはいないわ」

 彼女は躊躇うことなく、白銀の拘束魔法に縛られたレオニスの巨大な右手に、自らの掌を重ねた。

 「――っ!」

 レオニスは反射的に手を引こうとした。反動の熱は、まだ完全には引いていない。常人なら火傷を負うほどの熱気だ。

 だが、セラフィナの手は、驚くほど冷たく、そして力強かった。彼女から流れ込んでくる黄金の魔力が、レオニスの荒れ狂う内圧を、強引に、しかし優しく抑え込んでいく。

 「……あなたは、私の盾になりなさい。既存の法があなたを断罪すると言うのなら、私が新たな法となる。王家の直轄監視下として、あなたの身柄は私が預かるわ」

 「……王女殿下、それは独断が過ぎます! 教会の承認がなければ……」

 司祭の抗議を、セラフィナは冷たい一瞥で黙らせた。

 「この場における最高権威は、アルヴェリア王家である私よ。異論があるなら、父王に直接奏上なさい。……ただし、私の『守護者』に手を出そうとするなら、相応の覚悟をしてもらうけれど?」

 彼女の背後に、巨大な黄金の天秤を模した魔法陣が浮かび上がる。王権系の守護結界――絶対的な「不可侵」の意志。

 エレノアは、その圧倒的な王の威光に、静かに目を伏せた。

 「……分かりました。王女殿下のご温情、尊重いたしましょう。ですが、この力の調査と監視は、教会も共同で行わせていただきます。……それが、民の不安を鎮めるための条件です」


 こうして、レオニスの運命は「即座の処刑」から「監視付きの生存」へと書き換えられた。

 だが、それは茨の道の始まりに過ぎなかった。

 「学園への在籍は認めるわ。ただし……一般の寮に入ることは許されない。学園の北端にある、旧礼拝堂跡の別棟を使いなさい」

 セラフィナは、レオニスの耳元で囁いた。

 「そこは、誰も寄り付かない『檻』よ。けれど……私とあなただけの、作戦室でもあるわ」

 彼女は立ち上がり、レオニスを促すように手を差し伸べた。

 

 レオニスが、衛兵たちに囲まれて講堂を出ようとしたとき。

 「レオニス様!」

 群衆をかき分けて、一人の少女が駆け寄ってきた。

 ミレイユだった。彼女はヴァルグレイヴ家の使用人としての立場を既に失っていたはずだが、その手には、主人の荷物と冷却用の魔導具がしっかりと抱えられていた。

 「……ミレイユ。お前、家の方はどうした」

 「勘当されたのはレオニス様だけではありません。……私を雇うと言ったのは、ヴァルグレイヴ家ではなく、レオニス様ご自身ですから。……どこへでも、地獄の果てまでもお供いたします」

 彼女のアクアブルーの瞳は、涙を湛えながらも、かつてないほど強く輝いていた。その身に宿る「水の力」を、人々は教会に従順な精霊の加護だと信じている。だが、彼女だけは、それが自分を追放した故郷で見捨てられなかった唯一の神からの祝福であることを、そしてレオニスの巨掌もまた、同じ孤独な神々の光であることを確信していた。


 夕暮れの光が、ルミナール学園を赤く染め上げる。

 レオニスは、自分の右腕を見つめた。

 家族に捨てられ、神に背を向けられた怪物。

 だが、その大きな手は、今、二人の女性の意志に繋ぎ止められている。

 「……北辰の檻、か。悪くない」

 レオニスは、アッシュブラックの髪を風になびかせ、隔離先の別棟へと歩き出した。

 秩序を握り潰すためではなく、新たな秩序を自らの手で握り直すために。

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次の更新予定

2025年12月31日 23:00
2026年1月1日 16:00
2026年1月2日 15:00

断罪予定の悪役貴族、巨掌の握力で“秩序”ごと握り直す 川尾 @kavao_jp

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