第1章 衝撃の発現と「絶たれた絆」
1話 拒絶の儀式と、不浄なる巨掌
王立ルミナール学園の朝は、あまりにも白く、そして冷ややかだった。
北方の山脈から吹き下ろす鋭い風が、学園を象徴する巨大な時計塔の鐘の音を遠くまで運び去っていく。その音は、今日という日が単なる祝祭ではなく、残酷な選別の儀式であることを告げる警笛のように、レオニス・ヴァルグレイヴの耳朶を打った。
学園へと続く緩やかな坂道には、王国の各地から集まった新入生たちの馬車が列を成している。色とりどりの家紋をあしらった豪奢な馬車、その中で揺れる若者たちの表情は、期待と不安、そして隠しきれない特権意識に満ちていた。
だが、レオニスが乗るヴァルグレイヴ家の馬車を囲む空気だけは、異質な沈黙に支配されていた。
「レオニス様、お加減は……。顔色が、少し優れません」
対面に座るミレイユが、心配そうに身を乗り出した。彼女の水色の髪が、窓から差し込む朝日に透けて、淡いアクアブルーに輝いている。彼女は既にメイド服の隠しポケットに、氷の魔導具と数種類の鎮痛薬を忍ばせていた。レオニスの右腕が、今朝から不気味なほどの熱を帯びていることを、彼女だけが知っていたからだ。
「……案ずるな。ただ、昨夜は少し寝付けなかっただけだ」
レオニスは短く答え、右手を隠すように左手で袖口を強く握りしめた。
アッシュブラックの髪が、微かな振動に揺れる。彼の瞳――深いグレーの虹彩は、今、極めて鮮明に「世界」を捉えていた。馬車の車輪に刻まれた強化の術式、学園の門を覆う防護の結界……そして、講堂の奥から放たれる、他国の神々の干渉を撥ね退けるための『遮断』の波動。それらの「核」が、光の糸のように絡み合っているのが見える。
十七歳、星耀の審判。
この世界において、それは神からのギフトを受け取る神聖な儀式とされる。だがレオニスにとって、それは自分の内側で膨れ上がる正体不明の「熱」と、教会の敷いた「檻」が激突する瞬間に過ぎなかった。
「どのような権能であろうと、それがレオニス様の魂から生まれたものであるならば……。私は、それを尊いものだと信じております」
ミレイユの言葉は、氷を浮かべた清流のようにレオニスの焦燥を鎮めていく。彼女は知っているのだ。この少年が、どれほど孤独に、そして真摯に、己の血筋に流れる「悪役」としての宿命と戦ってきたかを。
学園の大講堂に足を踏み入れた瞬間、数千人の視線がレオニスに突き刺さった。
「見ろ……。ヴァルグレイヴの嫡男だ」
「辺境の狂犬、か。あの一族からまともな権能が出た試しがない」
「石板を穢さなければいいが……」
隠そうともしない嫌悪と、期待。人々は常に「悪役」を求めている。自分たちの正しさを証明するために、断罪されるべき生贄を必要としているのだ。
レオニスはそれらの視線を一瞥もせず、指定された席へと歩を進めた。
最前列、一段高い場所に設けられた特別席には、王国の至宝たちが並んでいた。
中央に座すのは、第一王女セラフィナ・アルヴェリア。ロイヤルブルーの軍服調ドレスを纏った彼女は、まるで氷の彫像のような静謐さを湛えていた。金糸で編み上げられた肩章が、彼女の毅然とした意志を体現している。彼女のサファイアブルーの瞳がレオニスを捉えたとき、そこに宿ったのは蔑みではなく、冷徹なまでの観察眼だった。
そしてその隣には、星耀教会の聖女エレノア・リーヴェルがいた。
薄い絹のヴェール越しに見える銀髪は、降り積もったばかりの新雪のように清らかだった。彼女は静かに目を閉じ、祈りを捧げている。その唇が紡ぐのは、不浄を排し、秩序を願う神聖な呪文だ。
白銀の法衣に包まれた彼女の姿は、この世のものとは思えないほど神々しい。だが、その背後に座すカシウス枢機卿の鋭い視線が、彼女の祈りの静謐さを、どこか張り詰めたものに変えていた。中道派の重鎮たる彼は、鉛のような瞳でレオニスを射抜き、その魂の価値を測っているようだった。
「……秩序、か」
レオニスは自嘲気味に呟いた。
彼ら秩序を司る者たちにとって、自分の存在がいかに危ういものか。それを証明する時間が、刻一刻と迫っていた。
儀式が始まった。
講堂の中央に鎮座するのは、巨大な「星耀の石板」。
古代の魔導具であり、神の意志を伝える唯一の媒体。この儀式には、アルヴェリア王国の厳格な階級社会が反映されていた。まずは平民出身の特待生や、地方の下級貴族から順に石板の前へと立ち、その掌を触れさせていくのだ。
それは、身分の低い者たちがまず神の恩寵を受け、講堂の空気を「清める」という意味合いも含まれていた。高位貴族たちは、その浄化された空気の中で最後に悠然と審判を受ける。それが、この国の伝統的な様式美であった。
「……『風の翼』! 飛行の権能だ!」
「……『治癒の雫』! 素晴らしい、教会への適性があるぞ!」
会場に響く歓声と拍手。平民の少年が涙を流して喜び、下級貴族の令嬢が安堵の吐息を漏らす。だが、その光景が繰り返されるたびに、レオニスの右腕の熱は一段階ずつ、確実に高まっていく。もはや熱というより、燃え盛る溶岩を血管に直接流し込まれているような、悍ましいまでの激痛だった。
辺境伯家という、この場でも屈指の高位にありながら、レオニスは「狂犬の血筋」として最後の一人まで残されていた。待たされる時間が長いほど、周囲の好奇と嫌悪の視線は濃密に絡みついてくる。
ミレイユが心配そうに指を組み、小刻みに震えているのが見える。レオニスは彼女に安心させるような笑みを向けようとしたが、食いしばった奥歯が軋み、表情を作る余裕さえ失われつつあった。
太陽が天頂に届こうとする頃、ついに、最後の名が呼ばれた。
「レオニス・ヴァルグレイヴ。前へ」
司祭の冷淡な声が、静まり返った講堂に、冷たい楔のように打ち込まれた。
講堂の全神経が一点に集中した。レオニスは重い足取りで壇上へと上がっていく。一歩踏み出すごとに、周囲の術式の「核」が悲鳴を上げているように感じられた。
壇上に立ったレオニスの前に、セラフィナ王女が歩み寄る。
彼女は王国の法の執行者として、儀式の正当性を見届ける義務があった。
「……レオニス・ヴァルグレイヴ。あなたの魂に宿るものを、この石板に問いなさい」
セラフィナのサファイアのような瞳が、レオニスの苦悩を見透かそうとする。彼女の纏うロイヤルブルーの香りが、微かにレオニスの鼻腔を掠めた。それは、規律と冷徹さが混ざり合った、峻厳な花の香りだった。
「……承知いたしました。問うといたしましょう。私のこの命に、いかなる宿命が刻まれているのかを」
レオニスは答えた。その声は低く、しかし驚くほど安定していた。
彼は右腕を伸ばした。
指先が、星耀の石板に触れる。
その瞬間、世界から音が消えた。
冷たいはずの石板から、黒い太陽が爆発したかのような衝撃が逆流してくる。
「ぐっ……、あ、あああああああああッ!」
レオニスは絶叫した。
右腕の中で、何かが、決定的に「壊れた」。
制服の袖が、内部から膨れ上がる筋肉の質量に耐えきれず、激しい音を立てて弾け飛んだ。剥き出しになった右腕は、もはや人間のそれではない。皮膚の下を這い回る血管のような魔力ラインが、深紅の残り火のように発光し、腕そのものが一段、また一段と巨大化していく。
「……段階一、いや、二……ッ!」
レオニスの意識は白濁し、視界は真っ赤に染まる。
彼の手は、通常の人間の数倍の大きさにまで膨張し、そこから放たれる圧倒的な質量が空気を歪めた。
そして――。
パキリ、と。
神聖不可侵とされる「星耀の石板」に、一筋の亀裂が走った。
神々がレオニスに授けようとした強大な祝福と、それを「不浄」として遮断しようとした石板の術式。その矛盾する二つの力が、逃げ場を失って石板の内部で爆発したのだ。
「……なっ!?」
司祭が絶句する。
次の瞬間、レオニスの巨掌が、抗うように石板を「握った」。
バキバキバキッ! という、魂を削るような破壊音が講堂に響き渡る。古代の叡智を結集した石板が、少年の握力によって、まるでおもちゃの粘土細工のように粉砕されていく。
「……神の、石板が……。握り潰された……?」
誰かの震える声が、静寂の幕を引き裂いた。
石板の崩壊は、単なる物理的破壊に留まらなかった。
会場全体を覆っていた保護術式の「核」が、媒体を失ったことで暴走を始めたのだ。
キィィィィィィィン! という高周波が耳を刺し、壇上の支柱が魔力の余波に耐えかねて折れ曲がる。巨大な天蓋の装飾が、新入生たちが座る客席へと落下していく。
「逃げろ! 崩れるぞ!」
パニックが波及し、生徒たちが蜘蛛の子を散らすように出口へと殺到する。
「レオニス様!」
ミレイユの悲鳴が聞こえた。
彼女は、逃げ遅れた年少の生徒を庇うようにして、崩落する壇上の下に立ち尽くしていた。
レオニスの視界が、瞬時に鮮明さを取り戻した。
痛みは消えていない。右腕は狂ったように熱を放ち、痙攣を繰り返している。だが、その巨大な手は、今何をすべきかを、彼の意識よりも早く理解していた。
「……動けッ!」
レオニスは跳躍した。
巨掌化した右腕を突き出し、頭上から降り注ぐ数トンの石材と、折れた支柱を「受け止めた」。
ドォォォォォォン!
床が陥没し、凄まじい衝撃がレオニスの全身を駆け抜ける。
だが、彼は止まらなかった。
「……く、う、うおおおおおおおッ!」
血管から血が噴き出し、筋肉が千切れるような悲鳴を上げる。それでも、巨掌は一切の揺るぎもなく重力を撥ね退けていた。
彼は空いた左手でミレイユと生徒を「すくい」上げ、安全な圏外へと放り出した。
救助を確認したレオニスは、支えていた数トンの瓦礫を、無人の空間へと緩やかに下ろした。
ズゥゥゥゥン……ッ!
重厚な石材が床に沈み込み、凄まじい砂塵が舞い上がる。その衝撃を最後に、レオニスの巨掌からは急激に力が抜け、内側からの過熱に耐えかねた筋肉が激しく痙攣を始めた。
「……はぁ、はぁ、はぁ……っ!」
肩で息をし、膝をつく。右腕からは熱せられた鉄のような蒸気が立ち昇り、深紅の魔力ラインが消えかかっては明滅している。
その、誰もが「救われた」と安堵し、レオニス自身が防衛の意識を解いた、刹那の隙を突くように――。
「……不浄です」
冷ややかな、しかし凛とした声が、砂塵を切り裂いて響いた。
レオニスが顔を上げると、そこには白銀の法衣を翻し、慈悲なき光を背負った聖女エレノアが立っていた。
彼女の手には、星の意匠が施された杖が固く握られている。そのライトグレーの瞳には、レオニスへの憐れみと、それ以上に深い、異端を排さんとする「断罪」の意志が宿っていた。
「神聖なる儀式を汚し、恩寵を暴力で踏みにじる……。その力は、エルデニアの秩序を壊す呪いそのものです」
エレノアが間髪入れずに杖を床へ突き立てると、レオニスの周囲に白銀の幾何学的な紋章が、檻を成すように浮かび上がった。
『誓約・檻の拘束』。
「……くっ……!?」
力が抜けた直後の体に、物理的な鎖を上回る概念の重圧がのしかかる。レオニスは巨掌を動かそうとしたが、魔力回路を直接縛り上げるような拘束に、呻き声を漏らすことしかできなかった。
「……違う、エレノア。彼は、助けようとしたのよ」
セラフィナ王女が、瓦礫を掻き分けてレオニスの側へと歩み寄った。
彼女のロイヤルブルーのドレスは埃に塗れていたが、その威厳は微塵も揺らいでいなかった。彼女はレオニスの巨大な右手に、躊躇うことなく白く細い指先を触れさせた。
ジィィィ、と。
灼熱したレオニスの肌と、セラフィナの冷たい魔力が触れ合い、白い湯気が立ち昇る。
「……熱い。壊れそうなほどに」
セラフィナはレオニスの瞳を覗き込んだ。
「でも、まだ壊れてはいないわ。この力も、あなたの魂も」
レオニスは意識が遠のく中で、王女のサファイアのような瞳を見つめていた。そして、そのさらに奥で、厳格な仮面の裏にわずかな期待を滲ませたカシウス枢機卿の姿を。
救われたのか、それとも、より深い檻に閉じ込められたのか。
彼が授かった「巨掌権」という権能が、王国の歴史を握り潰すか、あるいは守り抜くか。
その審判の答えが出る前に、レオニスの意識は深い闇へと沈んでいった。
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