レディ・ヴァイオレットの数奇な筆録
平間郁
短編
王立学園の昼下がり。
噴水の水音が涼しげに響き、令嬢たちは優雅に昼食を楽しんでいた。
銀器が触れ合うかすかな音すら、静謐な音楽として溶け込んでいる。
その静寂を、芝居がかった一本の叫びが断ち切った。
「私は負けませんわ! たとえ相手が公爵令嬢だとしても——殿下の寵愛は、この私にございます!」
誰もが息を飲んだ。
叫んだのは男爵令嬢——ヴィオラ。
その指先が突きつけられた先には、氷の美貌と讃えられ、次期王妃と目される少女が立っている。
メルディア・フォン・コルチカム公爵令嬢。
彼女の隣には、血の気が引いた顔で王太子ジェイスが立ち尽くしていた。
「……き、貴様……な、なんと不敬な……!」
ジェイス王子の声は、見知らぬ無礼な女への怒りと、隣国の王家の血を引く、あまりに高貴な婚約者への恐怖で震えていた。
王族としての矜持はあるものの、想定外の事態に処理が追いついていない。
対してメルディアは微動だにせず、まるで道端の石ころでも見るような瞳でヴィオラを眺めていた。
その冷気が場を凍らせる。
沈黙に耐えきれず、王子が叫んだ。
「ええい、衛兵! その狂った女を捕らえよ! 王族を虚言で貶めようとする大罪人だ!!」
無機質な抜刀音。
騎士たちが殺気を帯びてヴィオラへと迫る——その瞬間。
「お待ちなさい」
鈴の音のように澄んでいながら、絶対零度の威圧を孕んだ声が空気を制圧した。
メルディアだ。
扇をパチンと閉じ、王子と騎士たちへ冷ややかな視線を向ける。
「殿下、皆さま。手出しは無用ですわ。この娘は——わたくしが預かります」
「し、しかしメルディア嬢! こんな狂人を近づけては、君に危害が——」
「わたくしに二度言わせるおつもり?」
「……っ」
たった一言で、王子の反論は封じられた。
メルディアが扇を鳴らすと、影のように控えていた屈強な侍女たちが進み出る。
ヴィオラの両脇を掴み、優雅かつ容赦なく拘束した。
「連れていらして。……サロンでじっくりと、その“虚言”の真意を伺いましょう」
「えっ、ちょ、離して! シナリオが進まないじゃないの!」
メルディアの瞳がわずかに細められる。
「……ただの無礼な妄言として退けるには、少々熱量がありすぎますわね」
ヴィオラはズルズルと引きずられ、学園最上階へと連れ去られていった。
***
特権階級の生徒のみが使用を許された、豪奢な個室。
侍女たちは扉の外で「何人たりとも入れるな」と厳命され、室内には完璧な静寂が満ちていた。
ふかふかのソファーに沈み込み、最高級の紅茶を一口含んだところで——ヴィオラは我に返った。
(……あれ? なんで私、ここで優雅にお茶してるの?)
記憶を巻き戻す。
ここは乙女ゲームの世界。自分は転生者ヴィオラ。
本来ならば、入学してすぐに『運命の出会い』があり、数々のイベントを経て、今日の、卒業を間近に控えた昼食会で『断罪イベント』が起きるはずだった。
だが、現実は残酷だ。
入学から三年。何も起きない。
パンを咥えて角でぶつかるために校舎裏を百往復し、ハンカチを落としては自分で拾う虚しい日々。
ゲームの『強制力』か、モブとしての『補正』か。彼女は何をしてもイベントが発生しなかった。
(このままじゃ、実家に戻って借金のカタに売られる! 相手は前妻が三人行方不明になってる“青髭”伯爵!)
借金まみれの男爵家である実家は、卒業と同時に彼女を悪評高い好色家の後妻に差し出す手はずを整えていた。
帰れば、死ぬより酷い地獄が待っている。
ならば、確率は低くとも——ここで、あの“バグ”を利用するしかない。
(頼みの綱は、初期ロット版にだけ存在した『昼食会のバグ』!)
それは、どんなに好感度が低くても、他キャラ攻略中でも、この昼食会で『異議あり』と叫べば、強制的にジェイスルートの最終局面に突入できるという致命的な不具合。
現実世界では即座にアプデで修正され消滅したが、もしこの世界が『修正前(バージョン1.0)』なら——“ワンチャン”ある!
(システムよ、頼むから『断罪イベント発生中』と誤認して! さもなくば私は“青髭”行き——!)
そう、あれは一か八かのバグ技狙いの強行突破だったのだ。
しかし、現実はゲームではない。
目の前には、優雅にカップを傾ける“悪役令嬢”メルディア。
(詰んだ……。これ、断罪じゃなくて隠蔽処刑されるコースだ……)
冷や汗が止まらない。
沈黙が痛い。何か喋らなければ殺される。
混乱した頭で、ヴィオラは口を開いた。
「あ、あの……違うんです! 本当はここで貴女が私を罵倒して、それに殿下が『なんて酷い女だ!』って幻滅して、そこから真実の愛が始まる予定で……!」
「……なんですって?」
メルディアがカップを置く。その音が、裁判官の木槌のように響いた。
もうどうにでもなれ。
ヴィオラは腹を括り、この世界の“構造”——ヒロインと攻略対象、好感度システム、そして予定調和の結末について、堰を切ったように説明した。
「——という舞台設定ですので、つまり、これは『生贄』の物語なんです!
英雄が光り輝く未来へ進むためには、古き盟約である貴女を切り捨てなければならない……。
貴女という高貴な『犠牲』があって初めて、私たちの『真実の愛』は美しく正当化されるんです!
そう残酷に定められた運命……本来あるべき『正史』なんです!」
常ならば、その語りは即刻“狂気”として処刑されるべき内容だ。
しかしメルディアは違った。
彼女は瞳を輝かせ——まるで極上の文学に出会ったかのように、ゆっくりと拍手した。
「まぁ……! なんと斬新な構成でしょう」
「……はえ?」
「身分制度を“恋愛”によって打破する痛快さ。
“悪役令嬢”という舞台装置……悲劇的な生贄の美学……!
貴女、ただの道化かと思いましたが——構成力が素晴らしいわ。
それに、選択によって結末が変わる物語だなんて聞いたことがありませんわ。他にはどんな分岐がおありなの?」
その身の乗り出し方は貴族らしからぬ熱量だった。
その視線の“わかりすぎる共感”が、ヴィオラの眠っていた何かを刺激する。
恐怖が、別の熱に変わる。
前世、ファミレスで友人と日付が変わるまで語り合ったあの熱。
「よくぞ聞いてくれました!」
ヴィオラは立ち上がり、身振り手振りで語り始めた。
もはや相手が公爵令嬢であることなど忘れていた。
「『バッドエンド』もあります! 私が貴女に敗北し処刑されるルート!
他にも、人気がありすぎて後から追加された隣国の王子による略奪ルート!
あと全員と幸せになる『大団円ルート』も!」
「読み手の選択で主人公が処刑される? 己の選択で運命を切り拓く物語……なんて面白いのかしら!」
「そう! そうなんです!! それこそがノベルゲームの醍醐味なんです!!」
呆気に取られる侍女たちをよそに、メルディアは興味深そうに顎に指を添えた。
「……なるほど。“遊び”でありながら物語を操るのですわね。理解しましたわ。
ですが——疑問が残りますの」
一拍の沈黙。
メルディアはスッと双眸を細めた。
「“遊戯”の発想自体は、子供らしい柔軟さと納得できましょう。ですが、一介の男爵令嬢が描くにしては……そこに流れる“人の業”が深すぎます。
箱入り娘の空想にしては、土台があまりに重厚すぎましてよ」
メルディアの静かな追撃に、ヴィオラは一瞬だけ動きを止めた。
「……鋭いです、メルディア様」
そして、勢いのまま秘密がこぼれ落ちる。
「実は……その“重さ”には理由があるんです。この乙女ゲームシリーズ、私の“前世”の世界にあった『古典文学』をベースに作られているんです!
殿下のルートなんて、元ネタは『魔女の献身で王となった英雄が、慢心から愛の誓いを破り、全てを失う因果応報の神話』なんですよ!? だから世界観も悲劇も、
「前世……いえ、古典文学とは?」
「はい!
神々と人々が織りなす愛の神話、復讐や悲恋を描いた戯曲、そして光の貴公子の宮廷恋愛絵巻!
——いえ、それだけじゃございません!」
スイッチが入ったヴィオラは、もはや止まらなかった。
「私の世界には、もっと数えきれないほどの“娯楽”があったんです!
見た目は子供、頭脳は大人の探偵が難事件を解くミステリー!
海賊王を目指して冒険する大海原のファンタジー!
未来の猫型ロボット! 魔法少女! ゾンビパニックに、異能力バトル!」
ヴィオラは身振り手振りを交え、古今東西あらゆるジャンルを語り倒した。
漫画、アニメ、ドラマ、小説。
本来交わるはずのない物語の数々が、ヴィオラの口を通じて溢れ出す。
メルディアは紅茶を飲む手すら止め、その奔流に聞き入っていた。
その瞳は、新しい獲物を見つけた猛獣のように——いや、全宇宙の真理を目の前にした学者のように、妖しく爛々と輝いていた。
「……素晴らしいわ。
古典から俗悪な大衆娯楽まで……貴女の頭の中には、この国にある全蔵書を合わせても足りないほどの“未知の世界”が詰まっていますのね」
「は、はい! ネタの在庫なら一生分あります!」
ヴィオラは一時間、二時間と語り尽くした。
喉が枯れ、ようやく息をつく。
コト、と冷めた紅茶のカップを置く音で——魔法が解けた。
(……はっ!?)
王立学園の豪奢なサロン。
大貴族のご令嬢。
そして自分は、調子に乗って訳のわからない妄想を垂れ流した不敬な大罪人。
(……私、死ぬ…よね……? 未来の王妃の前で“ざまぁ系”の話とかしちゃったし……)
血の気が奪われゆく頬を見て、メルディアが笑った。
「ふふ……やっと夢から醒めましたのね。残念ながら、全ては手遅れですが」
「ひっ、申し訳ございませ——」
土下座しようとした瞬間、彼女が扇で顎をすくい上げた。
その瞳は獲物を選ぶ捕食者。そして同時に、原石に値段をつけるパトロン。
「ねぇヴィオラ。最初は正気を疑いましたけれど……。狂人の妄想にしては、物語の構成が美しすぎますわ」
「……へ?」
「あれだけの物語、一介の貴族令嬢の教養で紡げるものではありません。貴女の言う“前世”……あながち嘘ではありませんのね」
メルディアは楽しそうに目を細めた。
その瞳は、未知の宝箱を開ける瞬間の輝きを帯びている。
「稀代の天才か、異界の住人か……真偽などどちらでも構いませんわ。ただ、手放すには惜しい価値がある」
「あ……」
「死にたくなければ書きなさい。
貴女の頭の中にある異世界の物語——その全てを、わたくしのためだけに」
美しくも恐ろしい笑顔を前に、ヴィオラは震える首を縦に振るしかなかった。
***
扉が開くと、外にはしびれを切らした王子と学園長が待ち構えていた。
「メルディア嬢! 無事か! なぜ人払いを……その女に何をされた!」
「殿下、ご安心なさいませ」
メルディアはヴィオラの背に手を置き、堂々と宣言する。
「彼女は作り話の世界に精神が感応してしまう“役者”であり、“作家の原石”ですわ」
「……さっか?」
「ええ。先ほどの無礼も、創作中の物語の主人公になりきっての“迫真の演技”だったようです。あまりに真に迫ったゆえ、現実と虚構の区別がつかなくなってしまったとか」
畳み掛ける声は淀みない。
「そ、そうなのか? 乱心したわけではなく?」
「ええ。芸術への情熱が行き過ぎただけのこと。
ですが、殿下への無礼は事実。このまま学園には置けません。
——生徒達への誤解を解き、騒ぎを起こした罰として“自主退学”とし、身柄はコルチカム家がお預かりします。彼女の更生と管理は、わたくしが責任を持ちましょう」
「しかし——」
「殿下? わたくしの“お気に入り”に、何かご不満でも?」
にっこりと微笑みながら、後退を許さぬ威圧。
王子はタジタジと後ずさった。
「い、いや……君がそう言うなら、悪いようにはしないだろう。……男爵令嬢、慈悲深い我らに感謝するのだな!」
こうしてヴィオラは学園を去った。
実家の借金はコルチカム家によって秘密裏に処理され、青髭伯爵との縁談も消滅した。
表向きは乱心による追放。
実態は——次期王妃お抱えの専属作家就任であった。
***
数年後。
王太子妃メルディアは王宮のとある私室にいた。
ペンの音だけが静かに響く。
机には、国中に名を轟かす謎の女流作家こと、ヴィオラがいた。
「……よし、脱稿!」
「出来ましたの? ヴィオラ」
待ちわびた声に、ヴィオラは原稿を宝物のように抱き上げる。
そして朗々とあらすじを語り始めた。
「いつの時代でありましょうか——
栄華を極めた黄金の都。
そこには、王の寵愛を一身に受けながらも、嫉妬と悪意の闇に葬られた一人の愛妾がおりました。
彼女が遺したのは、神さえも魅了するほどに美しい『光の御子』。
……そして、孤独な王が新たな妃として迎えたのは、亡き愛妾と瓜二つの高貴な美姫。
しかし、それは長きにわたる破滅への序曲でございました。
母の面影を追う王子。夫の息子に惹かれていく若き王妃。
やがて決して交わってはならぬ二つの運命が重なる時、黄金の都に禁断の嵐が吹き荒れる——!
その始まりを告げる、愛と背徳の年代記!
第一章『パウロニア』でございます!」
芝居がかった声色と共に原稿を差し出す。
メルディアは息を呑み、猛烈な速さで受け取った原稿をめくり始めた。
静寂の中、紙をめくる音だけが響く。
やがて、彼女はふぅ、と熱っぽい溜息を吐いた。
「……傑作ですわ。禁断の恋、そして背徳。あまりに甘美で、残酷な物語……」
「ありがとうございます! では、このまま写本工房へ——」
「いいえ、なりません」
冷ややかな声に、ヴィオラが凍りつく。
メルディアは呆れたように首を横に振った。
「義母たる王妃に恋焦がれる王子など、そのまま世に出せば王室批判と受け取られかねません。不敬罪でヴィオラの首が飛びますわよ」
「ひっ!?」
扇で、ヴィオラの額をトン、と小突く。
「ふふ、相変わらず詰めが甘いですわね。あの騒ぎの時から、貴女は物語に夢中で……ご自身の身の処し方に、いささか思慮が欠けておりますわ」
苦笑するその表情には、かつて学園で無謀な賭けに出た小娘を拾った時のような、どこか懐かしむ色が混じっていた。
ヴィオラは縮こまり、頭を抱える。
「あぅぅ……面目ない……す、すぐに書き直します! 設定を辺境の貴族に変えて、時代も五百年ほど遡らせて……」
「ええ、表向きはそうしなさい。大衆にはその“毒抜き版”を与えておやりなさいな」
言いながら、メルディアは手元の原稿を愛おしげに胸に抱いた。
その唇が、背筋が凍るほど艶やかに歪む。
「ですが、この“オリジナル版”を処分する必要はありません。
これは、わたくしが厳重に保管します」
「……えっと、殿下?」
「修正前の、最も過激で純度の高い物語……これを読めるのは、この国でわたくし一人だけ」
メルディアはうっとりと原稿に頬を寄せた。
「ふふ、これぞ至上の悦楽ですわ……!」
その姿は、完全に“沼”に沈んだ愛好家のそれだった。
(……権力者の独占欲、怖っ)
ヴィオラは再び原稿を読み始めた主人の横顔を眺め、胸の内で小さく苦笑した。
「まったく、とんだ隠しルートに分岐したものだわ……」
主人の耽溺を邪魔せぬよう、小さく呟く。
『桐壺』はなんとかリメイクできたが、次の『箒木』をどう訳すべきか……と思案しながら、謎の女流作家“レディ・ヴァイオレット”は机に戻り、再びペンを取った。
その脳裏には、これまでに“翻訳”してベストセラーにしてしまった、数々の巨匠たちの名前が浮かんでいた。
(シェイクスピア先生、オウィディウス先生、そして紫式部先生……ありがとう。そしてごめんなさい。私、今日もあなた方の遺産で生きています……)
心の中で先人たちへ懺悔しつつ、今日もペンは止まらない。
転生ヒロインの夢は破れたけれど。
物語を貪る元悪役令嬢と、物語を紡ぐ元ヒロイン。
二人の奇妙な関係は、いつまでも続いていくのだった。
レディ・ヴァイオレットの数奇な筆録 平間郁 @hiramaiku
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