第2話 家族


金田夫妻の殺害から二ヶ月が経ち、冬を迎えようとしていた。

松田刑事……いや、警察はまだ金田夫妻の事件を追っているようだった。金田聡も犯行を認めず否認しているらしい。最初は勾留されていたが、結局警察は彼を起訴できなかった。証拠が足りなかったからだ。

私からすれば、矛先がこちらに向かなければそれでいい。

聡も随分追い込まれて警察官に暴力を振るったと松田刑事が言っていた。よっぽど追い詰められているのだろう。その様子を想像すると、少しだけ面白かった。

私はその日、叔父——母親の兄の家に向かっていた。

叔父一家は自宅から見える位置に住んでいる。二階建ての一軒家。庭には叔父が育てている花壇があって、いつも綺麗に手入れされていた。冬でも枯れた花を丁寧に取り除き、土を耕している姿をよく見かける。

表札には「桜井」と書いてあった。古い木製の表札で、家も古き良き時代の木造戸建てだ。

私は月に一度くらい、叔父の家を訪ねていた。

「裕子、久しぶり!今日はよく冷えるね!」

玄関で従兄弟の健太が出迎えてくれた。二十三歳、大学生。明るくて人懐っこい性格。いつも笑顔で、元気がいい。

「そうだね。健太、元気だった?」

「うん、バイト忙しいけどね」

リビングに通されると、叔母が笑顔で迎えてくれた。

「裕子ちゃん、よく来てくれたわね。寒かったでしょ?ご飯食べていって」

「ありがとうございます」

叔父も仕事から帰ってきて、家族揃って夕食を食べた。叔母の手料理は相変わらず美味しかった。カレーライスとサラダ。具材の大きいじゃがいもが口の中でほろほろと崩れる。

「裕子、仕事は大変じゃないか?」

叔父が心配そうに聞いてきた。眉をひそめ、真剣な表情。

「大丈夫です。慣れましたから」

「無理しないでね。体が資本だから」

「はい」

その後、石油ストーブの前で暖を取りながら、学校から帰ってきたばかりの健太の弟、弘樹も加わった。高校生で、部活の話を楽しそうにしていた。手振り身振りを交えて、試合のことを語る姿。

この家族は、本当に仲が良かった。

温かくて、優しくて、私を受け入れてくれた。だから、「好き」だった。

でも、やっぱり「それだけ」だった。

温かい家族団らんを眺めていても、私の中には何も湧いてこない。「ああ、いい家族だな」という認識だけ。感動も、幸福感も、ない。

ただ、ストーブの熱が顔に当たって心地いい、という身体的な感覚があるだけ。

夕食後、私は「お手洗いを借ります」と言って、二階に上がった。

叔父の寝室を通り過ぎて、窓を確認した。外から見て、どの窓が寝室か。確認済み。古い木製の窓枠。鍵は簡単な引っ掛け式。

トイレから戻って、リビングで少し話してから帰宅した。

「また来てね」

叔母が玄関で見送ってくれた。その笑顔は本当に優しかった。

「はい、またお邪魔します」

私は笑顔で答えた。完璧な笑顔。何度も鏡で練習した笑顔。

二週間後の深夜、私は叔父の家を訪れた。

午前二時。近所は静まり返っていた。雪がちらつき、寒さが肩を竦ませる。吐く息が白く凍る。

私は徒歩で叔父の家に近づいた。黒いパーカーを着て、フードを被って。手袋をはめ、足音を殺しながら歩く。

(……本当に、やるの?)

頭の中で自問自答した。

一瞬、躊躇した。

でもそれは叔父たちを殺すことを躊躇したのではなく、警察に見つかる可能性が高いからだった。リスク計算。

私は昔何度か灯油を買いに行きたいという叔母をガソリンスタンドまで乗せたことがある。その時に裏の勝手口から出たボックスの中に灯油の入ったポリタンクがあるのを見た。赤いポリタンク。満タンだった。

私は今日それで放火しようとしていた。

私は庭の隅に隠れて、様子を見た。木の陰。雪が積もり始めている。

やはり嫌な予感がする。今ではないのかもしれない。

いずれ叔父たちを殺すことにはなる。けど今ではない。

その時、二階の窓から健太が顔を出した。

タバコを吸っていた。煙が白い息と混ざって、夜の闇に溶けていく。

……起きてたのね。

私の悪い予感はこのことだったのかもしれない。

そう思いながらも家を観察し、考えを巡らせた。

「タバコ、灯油、石油ストーブ」

事故に思わせるトリックには十分かもしれない。でもそれは頭の中だけで、実際に私がやるとなるとそうはいかない。健太が起きている。それだけで計画は崩れる。

私はしばらくして自宅に戻った。足跡を残さないように、慎重に。

二階の窓からコーヒーを飲みながら、叔父の家……桜井家を眺めている。

「残念ね……」

いくつか放火のシミュレーションを重ねてみたが、やはりリスクが大きすぎる。警察の尾行、雪による足跡の残存、そして何より、現場で予期せぬ動き(健太のタバコ)があったこと。

「不可能ね……」

私は独り言をつぶやいた。

でも、それで落胆することはなかった。私の目的は「彼らを殺すこと」そのものではなく、あくまで「強い刺激によって感情が動くか」の確認だ。

今の状況で無理に実行して、警察に捕まってしまえば、次の実験ができなくなる。それは効率が悪い。

「……やめようかな」

ふと思った。

死は一瞬だ。金田夫妻の時、心臓が止まるまでの十八分間は確かに刺激的だったけれど、止まってしまえばそれでおしまい。ただの「物」になる。あの時感じた、わずかな充足感。でもそれも、すぐに消えた。

けれど、こうして「いつでも殺せる」状態で彼らを生かし、笑顔で接し続けるのはどうだろう。

私を「大好き」だと信じている彼らの善意を、私はいつでも裏切れる。その事実を知っているのは、私だけ。

そして何より、叔父の一家が住んでいても何の害もない。むしろ、「普通の親戚関係」を演じ続けることで、私の日常はより安全になる。

私は翌日、叔母に電話をした。

「昨日、お邪魔した時にお礼を言うのを忘れてしまって。お料理、とっても美味しかったです」

「あら裕子ちゃん、わざわざありがとうね。またいつでもおいで」

電話越しに聞こえる叔母の明るい声を聞きながら、私はカレンダーに目をやった。そこには今週末、恋人の慎也と会う予定が書き込まれている。青いボールペンで丸く囲まれた日付。

「次は、彼で試そう」

叔父の家族は、また機会があればでいい。焦らなくても壊すのは、いつでもいい。今はまず、私を愛しているというあの男を。

私は最後の一口のコーヒーを飲み干した。

味は、いつも通り苦いだけだった。砂糖もミルクも入れていない。苦味だけが舌に残る。

でも不思議と、その苦味だけは確かに感じられた。

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