第3話 再燃
榎本慎也。
二十八歳、システムエンジニア。私の恋人。交際して二年になる。
出会いは友人の紹介だった。最初のデートは映画。彼は緊張していて、ぎこちなかった。でも真面目で誠実な人だとすぐにわかった。
二回目のデートはレストラン。彼は事前にネットで評判を調べて、予約してくれた。
三回目のデートで、告白された。
「裕子さん、僕と付き合ってください」
私は少し考えるふりをして、答えた。
「はい、よろしくお願いします」
彼はとても嬉しそうだった。目を輝かせて、何度も「ありがとう」と言った。
交際が始まって、彼は本当によく尽くしてくれた。
誕生日には花束とケーキ。記念日にはホテルのディナー。クリスマスにはアクセサリー。
「裕子のために」
彼はいつもそう言っていた。
でも、私の中には何も湧いてこなかった。
「嬉しい」と言う。「ありがとう」と笑う。
でも、本当は何も感じていない。
ある日、海を見に行った。夕日が綺麗だった。
「裕子、綺麗だろ?」
慎也が私の手を握って、夕日を指差した。確かに綺麗だった。オレンジ色の光が波に反射して、まるで印象派の絵画みたいに揺れている。
「うん、綺麗」
私は笑顔で答えた。
でも、心の中で思った。
(……私、なにしてるんだろう)
まるで映画の登場人物を演じているみたいだった。台本通りの動き。台本通りのセリフ。「ここで感動するシーン」。
でも、私の中には何もない。
慎也は私を見て、微笑んだ。
「裕子と一緒にいると、本当に幸せだ」
「私も」
嘘だった。幸せなんて、わからない。
でも彼は信じてくれた。だから私は演技を続けた。
金田夫妻の殺害から約三ヶ月が経った。
彼とは月に数回会う程度。私が疲れるからだ。演技を続けるのは、思ったより消耗する。
テレビのニュース番組でコメンテーターの心理学者が話していた、あの言葉が時折頭の中で再生される。
「感情は、強い刺激によって呼び覚まされることがあります」
強い刺激。
慎也と夜を過ごしても何も満たされない。確かに金田夫妻が苦しむ様子を見たとき、少し何かが満たされた気がした。
そんなことを考えながら、朝の日差しを自宅の二階から眺めていた。田んぼに光が反射してきらきら輝いている。
午前九時頃、玄関のチャイムが鳴った。
松田刑事だった。
扉を開けると、彼は少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「朝早くに申し訳ございません」彼は頭を下げる。「金田夫妻の件ではご協力ありがとうございました。それで、金田聡さんから連絡等はありませんでしたか?」
私は驚いた表情を作る。実際に少し驚いた。
「いいえ、何も」
あの男が失踪?自殺ぐらいはするかと思ったけれど……。
「そうですか……」松田刑事が手帳を確認する。「金田聡さんが行きそうな所や、心当たりはありませんか?」
「思い当たる所ですか?」私は少し考えるふりをする。「私の所にはまず来ないと思います。接点はあまりありませんし、叔父の桜井の方がまだ可能性はあるかと……」
正直、金田夫妻の話は親戚では皆話さない。この前叔父の家に行ったときも、誰もその話はしなかった。まるで最初からいなかったかのように。
「桜井さんですか。これから向かうところでして……」
「そうですか。ところで、聡さんが本当に金田夫妻を?」
「捜査のことは言えませんが……」松田刑事は言葉を濁す。「とにかく、何か心当たりがあればこちらの方に連絡お願いします」
松田刑事から名刺を受け取った。「松田春樹」と書かれている。彼は頭を下げて車に乗り、去っていった。
松田春樹さんか……熱心ね。
それから一週間後の日曜日、私は慎也をドライブに誘った。
「ねえ、ちょっと遠出しない?」
「いいね、どこ行く?」
「農道をドライブして、景色のいいところでゆっくりしない?」
「いいね、たまにはそういうのも!」
彼は嬉しそうに頷いた。子供のような純粋な笑顔。
私たちは午前中に出発した。田舎の農道を走って、人気のない場所を探した。
「この辺、いい感じだね」
慎也が言った。
周りは田んぼと畑だけ。民家は見えない。電柱が等間隔に立ち並び、遠くに山の稜線が見える。
私は車を停めた。
「ちょっと歩こう」
「うん」
二人で車を降りて、農道を歩いた。風が心地よかった。冬の冷たい空気が頬を撫でる。
「裕子、ここで写真撮ろうか」
慎也がスマホを取り出した。
「うん、じゃあ私も一枚撮るね」
「いいよ」
私は手提げバッグの中身を確認した。死んだ祖父の工具箱にあった金槌。重い。木製の柄が手に馴染む。
これで人の頭を殴ったら、どうなるだろう。
私は深呼吸をした。
「本当に、やるのか」
でも、それは罪悪感ではなかった。ただの確認。
私はバッグの中で金槌を握りしめ、慎也のところに戻った。背中を向けて、景色を見ている慎也。無防備な後頭部。
「裕子、遅いよ」
「ごめんね」
私は後ろから近づいた。バッグの中に手を入れ、金槌を握りしめた。振りかぶれば、届く距離。
でも、その瞬間。
私の中で何かが引っかかった。
(……本当に、今?)
桜井家の時と同じ。あの「嫌な予感」。それは罪悪感ではない。ただ、「このタイミングではない」という、理由のわからない直感。
すると、携帯電話が鳴った。
思わずバッグの中を覗き込む。知らない番号からだった。
「もしもし」
「あっ……おれ……あの金田、聡」
「……どうしたの?」
私は驚いた表情を作りながら、慎也から少し離れた。
「驚かないんだね……警察きてない?たすけてほしいんだ」
「警察なら今朝来たわよ。あなたを探してるって」
私は通話中の聡に返事をしながら、金槌を鞄の奥に押し込んだ。金属が他の荷物にぶつかる音。
「やっぱりな……」聡の声は震えている。「俺、何もやってないのにさ……今友達の家に泊めてもらってたんだけど、『お前と一緒にいたら俺まで疑われる』って追い出されて……」
聡の声は震えていた。追い詰められている。
「助ける?」私は慎重に言葉を選ぶ。「とにかく一度会いましょうか。この掛けてる番号はあなたの携帯電話?」
「番号は違うよ止められてるから、携帯は友人だよ。本当、裕子、お前だけだよ、味方してくれるの……」聡の声がさらに切迫する。「警察で、『佐々木裕子さんはあなたのことを心配していました』って言われたんだ。お前だけは、俺を信じてくれてるって……」
私は、内心で笑った。
(ああ、そうか。私が松田刑事に『聡くんがそんなことするはずない』と言ったこと、警察が聡に伝えたのか)
皮肉だった。私が彼を陥れるために言った言葉が、今、彼を私のもとに引き寄せている。運命の悪戯というには、あまりにも出来すぎている。
「ええ。今どこにいるの?」
「裕子の家の近く……歩いてきたんだ。警察に見つかったら終わりだから、車には乗れなくて……」
私は慎也の方を見た。彼は心配そうにこちらを見ている。
「わかった。じゃあ、私の家に来て。住所教えるわ。あと友人の携帯から発信履歴消してね」
「あっ、ありがとう……本当に、ありがとう……」
聡に住所を教え、電話を切る。
慎也が心配そうな顔でこちらを見ている。
「仕事?何かあった?」
「ううん、大丈夫」
「そっか、じゃあ笑って」
彼は微笑み、カメラをこちらに向ける。
私はいつもの笑顔でカメラにピースした。シャッター音が響く。
桜井家と彼を殺すつもりだった。でも二度もできなかった。何かの運なのか、私にはわからなかったが、それならそれでいい。
慎也と夕日が見える海沿いのベンチに座り、慎也が持ってきたブランケットを二人で膝にかけて、寄り添いあった。海の匂いが風に乗って運ばれてくる。
「今日、楽しかった」
慎也が言った。
「うん」
私は答えた。
でも、心の中では違うことを考えていた。
(これが幸せなのかな)
もし、私が「幸せ」を感じられる人間だったら。慎也の顔を見て、自然と笑みが出れば、どれほど楽しいだろう。きっとそれを感じられれば、慎也とこのまま年を取り、子供もできて、共に生きるんだろう。
でも、私にはそれを感じることが出来ない。
ふと、思った。
もし、さっき金槌で彼を殴っていたら。彼はどんな表情をしただろう。困惑?恐怖?悲しみ?その表情を見たとき、私の中で何かが動いたのだろうか。
「裕子?」
慎也が心配そうに私を見た。
「どうしたの?ぼーっとして」
「ううん、何でもない」
私は慎也の方を向いた。そして、キスをした。
慎也は一瞬驚いたようだったが、すぐに私の肩を抱き寄せた。
「裕子……」
彼の声は優しかった。温かい吐息が頬にかかる。
私はその優しさを「理解」した。でも、「感じる」ことはできなかった。
日が暮れて辺りが暗くなり、私たちはその後レストランに行き夕食を取った。パスタとワイン。慎也は終始楽しそうに話していた。
「じゃあね、裕子。今日も楽しかったよ」
「うん、じゃあね。気をつけて」
慎也は自宅まで私を送ってくれた。
車を降りて玄関に向かおうとすると、家の横にある物置小屋から物音がした。
私は歩いて物音のする物置小屋へ向かった。扉を開けると、聡がいた。薄暗い中、壁に寄りかかって座り込んでいる。
「やぁ、ごめん。寒くて……」聡が立ち上がる。「脅かすつもりじゃなかったんだ」
「いえ、いいのよ。中に入る?」
「あっ、ごめん。それじゃあ……」
「聡くん、誰かにつけられてない?それと誰かにここに来ること言った?」
「大丈夫」聡が首を振る。「友達には追い出されたから口も聞いてくれなかったし、歩きでここまで来たから」
私は辺りを見渡した。近所に怪しい車はないか。誰か見ている人はいないか。松田刑事が尾行している可能性は?
でも、周囲は静かだった。風が木の葉を揺らす音だけ。
「そう。一応、裏口から入って」
「ありがとう、裕子……」
聡は安堵したような顔をした。肩の力が抜け、表情が緩む。
私は彼を家に入れながら考えた。
(これは、面白いかもしれない)
警察に追われている男。親殺しの容疑をかけられた男。そして、その容疑をかけたのは、私。
彼を「助ける」ふりをして、手元に置く。いつでも、警察に突き出せる。いつでも、壊せる。
それは、桜井家の時と同じ。「生かしておく方がいい」
私は聡を二階の空き部屋に案内した。
「ここで休んで。しばらくは出ないでね」
これから、どうやって彼を「使う」か。そして、いつ、どうやって「壊す」か。それは強い刺激になり、私の感情に作用するのか。
興味が湧いた。
「聡くん。後で詳しく話を聞かせて。それと携帯は?」
「止められてるよ、さっきのは友達の番号だって」
「そうじゃなくて、あなたの携帯は?」
「あっ……はい、これ」
電源は入っていない。念のため預かることにした。
「一応預かるわね」
「分かった、どうせ使えないし」
聡は少し不服そうだった。眉をひそめ、唇を尖らせている。
私は携帯を手に取った。軽い。古い機種だ。
(電源は入っていない、か)
でも、本当にそうだろうか。彼は何かを隠している気がする。友人の家を追い出された?本当に?
私は階段を降りながら思った。
(この男、嘘をついている)
感情の標本 @junjux
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