第1話 家族実験
最初の対象は、金田夫妻だった。
隣町に住む遠い親戚。年に数回、親族の集まりで顔を合わせる程度の関係。
この夫婦が、私は昔から嫌いだった。
「嫌い」という感情は、私にも理解できる。不快、煩わしい、消えてほしい。そういう感覚。これは確かに感じられる。
金田夫妻は、会うたびに小言を言ってくる。
「裕子ちゃん、まだ結婚しないの?もう二十六でしょう?」
「看護師なんて大変な仕事やめて、もっと楽な事務職とかにすればいいのに」
「その年齢で一人暮らしなんて、親御さんも心配でしょう。亡くなったお爺さんの家に一人で住んでるんだろ?寂しいんじゃない?」
余計なお世話だ。
でも、私はいつも笑顔で答える。
「そうですね、いつか結婚できたらいいなと思ってます」
「看護の仕事、私には合ってるみたいで」
「親も応援してくれてますから」
完璧な、従順な若い女の演技。何度も練習した、角の立たない返答。
金田夫妻には息子がいる。三十歳のニート、金田聡。実家に引きこもって、ゲームばかりしている。でも夫妻はその息子のことを「繊細な子」「今は休養が必要」と甘やかしている。
私に説教する資格なんてないくせに。
ある日、思った。
「この人たち、消えたらいいのに」
そして、次の瞬間思った。
「消してみたら、私は何か感じるだろうか?」
嫌いな人が消える。普通なら、罪悪感とか後悔とか、そういう感情が湧くはずだ。でも、私には湧かない気がする。
だったら、試してみればいい。
私の職場の処置室には、もっと静かで、もっと確実な「死」が、ありふれた備品として並んでいる。
『塩化カリウム注射液』。
本来は薄めて慎重に体に流し込むもの。けれどこれを原液のまま飲み物に混ぜれば、心臓の電気信号を狂わせる猛毒に変わる。
私は、使用期限が近いアンプルを一本、何食わぬ顔でポケットに滑り込ませた。ガラス製の小さなアンプル。手のひらに収まるサイズ。台帳には『破損のため破棄』とだけ書いて。
誰も疑わない。私は、ここの模範的な看護師なのだから。
お茶に混ぜれば、気づかれないだろう。
週末、金田家を訪ねた。
「裕子ちゃん、珍しいわね」
金田夫人が玄関で驚いた顔をした。少し警戒するような目つき。
「近くを通りかかったので、ご挨拶にと思って」
「まあ、嬉しいわ。上がっていって」
リビングに通される。金田夫が新聞を読んでいた。老眼鏡をかけ、記事に目を落としている。
「やあ、裕子ちゃん。元気にしてるかい?」
「はい、おかげさまで」
夫人がお茶を淹れに台所へ行った。
チャンスだった。
私はポケットから小さなアンプルを取り出して、テーブルの上の急須に中身を全て注いだ。無色透明。匂いもない。液体が静かに茶葉の間に沈んでいく。
夫は新聞に夢中で、気づかなかった。
「はい、お茶どうぞ」
夫人が湯呑みを三つ、テーブルに並べた。湯気が立ち上る。
私は自分の湯呑みには口をつけず、二人の様子を見た。
「裕子ちゃん、最近彼氏とはどう?」
夫人が聞いてきた。
「ええ、まあ順調です」
「結婚の話は出てないの?」
「まだそこまでは……」
「早くしないと、女の子は年齢が大事なんだから」
またこの話か。
私は笑顔で頷いた。
「そうですね、気をつけます。聡くんは二階ですか?」
「あっ……そうよ、何か用?」
「いえ、良かったら挨拶しようかなって。二階上がってもいいですか?」
「駄目よ!」夫人が鋭く言う。「あっ、ごめんなさい。聡は今ちょっと風邪で寝込んでて……」
「……そうですか」
私は時計をちらりと見た。お茶を飲んでから、約五分。
十五分ほど経った頃、夫人が急に顔を歪め、胸を掻きむしり始めた。
「……なんだか、動悸が……」
「どうしたんだい?」
夫も顔色が悪くなっている。額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。
「胸が……」
夫人が立ち上がろうとして、よろめいた。テーブルに手をついて、必死に体を支える。
私は立ち上がって、夫人を支えた。
「大丈夫ですか?」
「裕子ちゃん……救急車……」
夫も床に手をついて、呼吸が荒くなっている。
私は携帯を取り出したけれど、かけなかった。ただ、観察していた。
夫人が床に倒れた。痙攣している。口から泡を吹いている。白い泡が唇の端から溢れる。
夫も同じだった。苦しそうに喘いで、私を睨んでいた。その目には、困惑と恐怖が混じっていた。
私はそれを、ただ観察していた。
夫人の顔が蒼白になり、激しく胸を押さえている。塩化カリウムが心臓に到達したのだ。心筋が不規則に収縮し、やがて止まる。
夫も同じ症状。呼吸が浅く、不規則になっている。喉が鳴る。空気を求めて口を開閉する。
二人とも、あと数分だろう。
私は時計を見た。摂取から症状発現まで、約十八分。データとして、正確だった。
「……ああ、こういう顔をするんだ」
興味深かった。人が死ぬ瞬間の顔。教科書や職場では見たことがある。でもこんなに間近で、しかも自分が原因で見るのは初めてだった。
五分後、二人は動かなくなった。
私は脈を確認した。ない。頸動脈に指を当てても、何も感じない。
「死んだんだ」
私は自分の心を探った。
罪悪感は?ない。
後悔は?ない。
恐怖は?ない。
ただ、「ああ、本当に死ぬんだな」という確認だけ。
そして、少しだけ。ほんの少しだけ。
「楽しかった」。
二人が苦しむ様子を見ているとき、私の中で何かが動いた気がした。空っぽだった器に、わずかに何かが注がれたような。
「これが、感情?」
もしかしたら、私の感情のスイッチは、普通の人とは違う場所にあるのかもしれない。
私は急須と湯呑みを洗って、アンプルをポケットにしまった。ガラスが冷たい。
二階に上がり、聡の部屋に向かった。
部屋には張り紙で「立ち入り禁止」と書かれていた。子供じみた字。
ドアの前に、蓋付きのバケツがあった。開けるまでもなく匂いで分かった。排泄物だ。鼻を突く悪臭。
私はその部屋の扉を見ながら、少し考えた。それから、聡の部屋には入らず、玄関から出た。
誰にも見られていないことを確認して、車に乗り込んだ。
帰宅して、シャワーを浴びた。服を脱ぎ、熱い湯を浴びる。
鏡の中の自分を見た。
変わらない。何も変わっていない。
「私、人を殺したんだ」
そう口に出してみた。でも、実感がなかった。まるで他人事のように聞こえる。
三日後、金田夫妻の遺体が発見された。
息子の聡が、リビングに行って見つけたらしい。警察が来て、司法解剖が行われた。
親族として、私も事情聴取を受けた。
「最後に金田さん夫妻に会ったのはいつですか?」
「半年くらい前ですかね、親戚の集まりで」私は悲しげな表情を作る。「いつも優しくしてくださって……信じられません」
私は完璧な演技で、悲劇に打ちひしがれる親族を演じた。
「夫妻と何かトラブルはありましたか?」
「いえ、全くありません」
「息子の聡さんとの面識は?」
「親戚の集まりで何度か会った程度です」
警察の疑いの矛先は、案の定、二階にいた聡に向かっていった。事件当時、一階で両親が悶絶している間も、彼は二階でゲームをしていたという。
「気づかなかった」という彼の主張を、警察が信じるはずもない。
数日後、松田という刑事が私の元を訪れた。
三十代半ば。鋭い目つきだが、どこか誠実そうな印象。彼は名刺を差し出した。
「捜査一課の松田です。金田さん夫妻の件で、少しお話を伺いたいのですが」
「はい、もちろん」
私たちは、近くの喫茶店に場所を移した。古い喫茶店。木のテーブルと革張りの椅子。松田は、コーヒーを一口飲んでから話し始めた。
「解剖の結果、死因は急性心不全……いわゆる心停止です。しかし、お二人が同時に、というのはどうも不可解でして」
「……同時に?」
「ええ。しかも、体内から微量のカリウムの異常値が検出されました。ただ、これだけでは断定できない。食事由来の可能性もありますから」
松田は、私の表情を伺うように見つめた。私は心配そうな顔を作る。
私は、待っていましたとばかりに、看護師としての「専門的な懸念」を口にする。
「……あの、松田さん。あまり変なことは言いたくないのですが」
「何でしょう?」松田が身を乗り出す。
「聡くんのこと、何かご存知ですか?」
松田の目が、わずかに細められた。
「息子さんですか?今、重要参考人として話を聞いていますが」
「実は……」
私は、ためらうように言葉を選んだ。視線を落とし、指先でカップを撫でる。
「以前、叔母さんが泣きながら話してくれたことがあって。聡くんに暴力を振るわれたって。お金もせがまれて、クレジットカードも勝手に使われたって……」
松田が、手帳を取り出した。
「それは、いつ頃のことですか?」
「半年くらい前、親戚の集まりの後です。叔父さんは聡くんのことを『繊細な子』って庇っていましたけど、叔母さんは本当に辛そうでした」
私は、嘘と事実を重ねる。
聡が暴力を振るった形跡などない。けれど、クレジットカードで課金していたのは事実だと聞いている。私がそう言えば、警察は彼のパソコンやスマホを徹底的に調べるだろう。
「あの、松田さん」
私は声を落とした。
「聡くんが、ご両親の保険金の受取人になっているって、自慢げに話していたこともあったそうなんです。本当に、あのご夫婦が可哀想で……」
私は心の中で、二階の扉の前にあった「排泄物のバケツ」を思い出した。あのゴミのような生活を送る男に、親殺しの罪を背負わせる。
それが、私を不快にさせた金田夫妻への、最高の弔いだった。
「もし、彼がご両親に何か……。あんなに優しかったお二人が、息子さんの手で……なんて、考えたくもありませんけど」
私は顔を覆った。指の隙間から、松田が手帳に激しくメモを取るのが見えた。ペンが紙を走る音。
「……そうですか。それは貴重な証言です。佐々木さん、もし何か思い出したことがあれば、いつでもご連絡ください」
松田は名刺を置いて、立ち上がった。彼の顔つきが変わっていた。私の「証言」が、パズルの最後のピースになったのだ。
葬儀に参列した。
親族が泣いていた。
「いい夫婦だったのに」
「まだ若いのに」
「可哀想に」
私も涙を流す演技をした。ハンカチで目を押さえて。でも、中身は空っぽだった。涙は出ない。目薬を仕込んでおけばよかった。
聡は不在だった。親戚の間でも噂になっていた。聡が夫妻を殺したと。
「来れるはずないか……」
私はそうつぶやいた。
葬儀が終わって、帰宅した。リビングのソファに座って、天井を見上げた。古い天井。染みがある。
「……やっぱり、何も感じない」
少しだけ、二人が苦しむ様子を見たときに「楽しかった」。でも、それ以外は何もなかった。
「もっと試してみないと、わからないな」
次は、好きな人で試してみよう。
嫌いな人を失っても何も感じないなら、好きな人を失ったらどうだろう。深い喪失感や悲しみを、味わえるかもしれない。
そう思って、私は次の実験対象を決めた。
叔父一家。
母の兄の家族。叔父、叔母、従兄弟が二人。
優しい人たちだった。子供の頃、よく遊びに行った。叔母の作る料理が美味しくて、従兄弟たちとゲームをして遊んだ。温かい記憶。
「好き」という感情も、私にはある。心地よい、また会いたい、そういう感覚。
だから、この人たちを失ったら、私はきっと悲しむはずだ。
「それが、本当の感情なんだろうな」
私は、自分の中に眠っている「普通の感情」を見つけたかった。そのためには、もっと強い刺激が必要だった。
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