感情の標本
@junjux
プロローグ
プロローグ 私の名前
私の名前は佐々木裕子。二十六歳、看護師。
特別養護老人ホーム「さくら苑」で働いて四年目になる。農場の匂いが風に乗ってくる田舎町。私はその外れにある古い一軒家に、一人で住んでいる。
朝は六時に起きる。キッチンでコーヒーを淹れて、リビングのソファに座る。窓の外には田んぼが広がっていて、遠くに養豚場の建物が見える。豚の鳴き声が、風向きによってはここまで聞こえてくる。低く、断続的な鳴き声。
養豚場は親戚の桜井養豚場。母の兄が営んでいる。
シャワーを浴びて、制服に着替える。鏡に映る自分を見る。
笑顔の練習。
口角を上げて、目を細める。「おはようございます!」声のトーンも大事。明るく、でも押し付けがましくなく。鏡の中の自分が、完璧に笑っている。
完璧。
ふと、テレビのニュース番組でコメンテーターの心理学者が話しているのが聞こえた。
「感情は、強い刺激によって呼び覚まされることがあります」
私は、リモコンを握ったまま動けなくなった。
もしかしたら、私の感情も、どこかに眠っているだけなのかもしれない。
七時半に家を出て、車で十五分。「さくら苑」に到着する。古い建物。入り口の自動ドアが開くと、消毒液と老人特有の匂いが混ざった空気が鼻を突く。
「おはようございます!」
玄関で会った介護士の田中さんに笑顔で挨拶する。
「あ、佐々木さんおはよう!今日も元気だね」
「はい!今日もよろしくお願いします」
ロッカーで荷物を置いて、ナースステーションへ。夜勤の看護師から申し送りを受ける。彼女の目は疲れていて、声にも張りがない。
「305号室の山田さん、昨夜から呼吸が浅くなってます。家族には連絡済みです」
「わかりました」
私はメモを取る。山田さん、八十七歳。末期の肺癌。もう長くない。
でも、私の中には何も湧いてこない。
「かわいそう」とか「辛いだろうな」とか、そういう感情が、ない。
ただ、「そうなんだ」という事実だけが頭に入る。データの入力。記録の更新。
朝の回診を始める。各部屋を回って、入居者の様子を確認する。血圧を測って、体温を測って、薬を配る。
「おはようございます、佐々木です。お加減いかがですか?」
笑顔で、優しく。声のトーンは柔らかく。手際よく血圧計を巻く。
「ああ、佐々木さん。今日もありがとうね」
「いえいえ、お大事にしてくださいね」
完璧な、看護師の演技。
四年間、毎日この演技を続けている。最初の頃は少し疲れたけれど、今はもう慣れた。まるで呼吸をするように、自然に「優しい佐々木裕子」を演じられる。
昼休み、休憩室で同僚の溝本さんと弁当を食べる。休憩室は狭く、古い冷蔵庫とテーブルが一つあるだけ。
「ねえ佐々木さん、彼氏とはうまくいってる?」
「ええ、まあ」
「いいなあ。私なんて全然出会いないよ」
「そのうちいい人見つかりますよ」
「そういえば佐々木さんの彼氏、見たことないなー。写真とかないの?」
「またそのうち見せますよ」
「あーそうだ。これ見て」溝本さんがスマホを取り出す。「可愛いでしょ?」
溝本さんはよく犬の写真を見せてくる。柴犬。笑っているような顔。
「ほんとね、可愛い」
こういう会話も、台本があるみたいに自然に出てくる。でも、本当は何も感じていない。
溝本さんが恋人を欲しがっていることも、私に彼氏がいることも、全部が「そういう設定」でしかない。舞台の上の役者。
午後、305号室を訪れる。
山田さんは痩せ細って、ベッドに横たわっていた。頬がこけ、皮膚が透けて見えるほど。娘さんと息子さんが、ベッドサイドの椅子に座っていた。二人とも目が赤い。
「佐々木さん……」
娘さんが泣きながら私を見た。
「父が、もう……」
「そうですか」
私は静かに頷いて、山田さんに近づく。呼吸は浅く、不規則。チアノーゼが出始めている。唇が青紫色に変わっている。
「……ありがとう」
山田さんが、かすかな声で言った。私を見て、微笑もうとしている。唇が震える。
「いつも……優しく……してくれて……」
娘さんと息子さんが、すすり泣いている。ハンカチを握りしめて。
私は無表情で山田さんを見下ろした。
何も言わなかった。何も感じなかった。
ただ、「ああ、もうすぐ死ぬんだな」という事実だけが頭にあった。
私はそのまま、何も言わずに部屋を出た。
廊下で、娘さんが追いかけてきた。
「佐々木さん、あの……父が最期に何か……」
背後からは、家族の嗚咽が聞こえている。低く、途切れ途切れの泣き声。
私は、その「悲しみ」という感情が、どんな化学反応で生まれるのか知りたかった。脳内の神経伝達物質?ホルモンのバランス?
でも、今は仕事がある。
「いえ、よく聞き取れなくて」私は笑顔を作る。「でも山田さんにはお世話になりました。では、他の患者さんの対応がありますので」
私は頭を下げて、その場を離れた。白い廊下。消毒液の匂い。
山田さんは、その日の夕方に亡くなった。
家族が泣き崩れる声が、廊下まで聞こえた。高い女性の声と、低い男性の声。
私は通りがかって、その様子をちらりと見た。
「……なんで泣くんだろう」
本気でわからなかった。
死は当たり前のことだ。特に、八十七歳で末期癌なら。予想通りの結果。統計的にも妥当。
でも、家族は泣く。同僚も「可哀想に」と言う。
私だけが、何も感じない。
「私、おかしいのかな」
そう思ったのは、最初の一年だけだった。
今はもう、「そういうものだ」と受け入れている。私には、普通の人が持っている「何か」がない。
でも、それで困ることはない。むしろ、この仕事には向いているのかもしれない。
死や苦しみを目の前にしても、冷静でいられる。動揺しない。淡々と業務をこなせる。正確に記録を取り、適切に処置を行う。
「佐々木さんって、メンタル強いよね」
溝本さんが言ったことがある。
「全然動じないもん。私なんて、初めて看取りしたときボロボロ泣いちゃったのに」
私は笑って答えた。
「慣れですよ、慣れ」
でも、本当は違う。慣れたんじゃない。
最初から、何も感じていなかったんだ。
仕事を終えて、夜七時に帰宅する。
夕食は適当に済ませて、ソファに座る。コンビニ弁当。味は分かるが、美味しいとは感じない。テレビをつける。ニュースが流れている。
事故のニュース。被害者の家族がインタビューで泣いている。顔をくしゃくしゃにして。
「なんで泣くんだろう」
やっぱりわからない。
私はリモコンでチャンネルを変えた。バラエティ番組。芸人が大げさに笑っている。
スマホを見る。慎也からメッセージが来ていた。
「今週末、どこか行こうよ」
私は返信する。
「いいよ、どこがいい?」
「海とか?」
「うん、いいね」
こういうやり取りも、全部が「そういうもの」だ。
恋人同士なら、こういう会話をするもの。週末にデートするもの。記念日を祝うもの。
全部、マニュアル通り。社会のルールブック。
でも、私の中には何もない。
ふと、思った。
「私には、本当に何も感じる能力がないのだろうか?」
もしかしたら、どこかに埋もれているだけかもしれない。死んだ感覚が、眠っているだけかもしれない。
朝に見たニュース番組を思い出した。心理学者が言っていた言葉。
「感情は、強い刺激によって呼び覚まされることがあります」
強い刺激。
何か強い刺激があれば、眠っていた感情が目覚めるかもしれない。ずっと探していた「何か」が見つかるかもしれない。
「……試してみようかな」
そう思ったのが、全ての始まりだった。
私はソファから立ち上がり、窓の外を見た。暗闇の中、遠くに桜井養豚場の明かりが見える。小さく、オレンジ色に光っている。
「強い刺激」
その言葉が、頭の中で何度も反響していた。
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