第41話 西の丸の落日

寛永二十年(一六四三年)冬。

 江戸城・本丸の奥深くで、静かなる地殻変動が起きていた。

 松平忠親は、春日局から託された「裏帳簿」を駆使し、有力大名の正室たちを通じて、諸大名の意思を「反・秀親」で統一することに成功していた。

 「左府様(秀親)の厳格すぎる支配は、戦国の世ならば必要でした。しかし、今は泰平の世。……家光様と若き忠親様による『徳の政治』こそが求められています」

 忠親の根回しは完璧であった。外堀は埋まった。あとは本丸――父・秀親の首を取るのみである。

***

 十二月某日。

 運命の評定が始まった。

 白書院の上段には将軍・家光。その脇、一段高い左大臣席には松平秀親が、いつものように冷徹な眼差しで座っていた。

 家光が口を開いた。

「……本日は、幕閣の人事について申し渡す」

 家光の声は、かつてないほど低く、力強かった。

「土井利勝ら、旧来の老中を大老として棚上げし……新たに松平信綱(知恵伊豆)、堀田正盛、阿部忠秋らを老中とする。……これより、政務はこの若き六人衆(後の『六人衆』)を中心に行う」

 広間に緊張が走った。それは、秀親の手足となってきた古参の更迭と、家光子飼いの若手の抜擢を意味していた。

 秀親が扇子をゆっくりと閉じた。

「……認められませんな」

 秀親の声が響く。

「信綱らは才こそあれど、経験不足。天下の舵取りは任せられぬ。……この人事、左大臣として却下いたします」

 いつもの光景であった。秀親が否と言えば、すべては覆る。誰もがそう思った。

 だが、この日は違った。

「……却下はさせぬ」

 家光が秀親を真っ直ぐに見据えた。

「これは相談ではない。将軍としての『命令』だ」

「命令とて、道理が通らねば従えませぬ。……上様、お忘れか。大御所(秀忠)様の遺命により、私が政務の最終決定権を持つのです」

 秀親が「遺命」という最強の盾を持ち出したその時、忠親が進み出た。

「……父上。その遺命、もはや無効にございます」

 忠親は、懐から連判状を取り出し、秀親の前に広げた。

 そこには、伊達、前田、島津をはじめとする主要大名たちの花押(サイン)が並んでいた。

「諸大名は皆、家光様のご親政を望んでおります。……父上が作った『恐怖の秩序』は、もう古いのです」

「……何?」

 秀親の眉がピクリと動いた。

「父上は、戦乱の再発を恐れるあまり、すべてを縛り付けた。ですが、島原の乱を経て、もはや徳川に刃向かう者などおりません。……今の天下に必要なのは、締め付ける鎖ではなく、民を育む水です」

 忠親は、父の目を射抜いた。

「左大臣・松平秀親殿。……貴方の役割は終わりました。どうか、その席をお譲りください」

 秀親は、連判状と、成長した息子の顔、そして威厳に満ちた家光の顔を交互に見た。

 自分が築き上げた「壁」が、完全に包囲されていることを悟った。力ずくでねじ伏せることもできるが、そうすれば徳川は割れる。

 秀親は、長い沈黙の後、小さく息を吐いた。

「……そうか。お前たちが、私を不要だと言うのか」

「はい。……貴方は偉大すぎた。だからこそ、今、消えねばならぬのです」

 忠親の言葉は、引導そのものであった。

 秀親はゆっくりと立ち上がった。その動きに、老いの影が見えた。

「……よかろう。……力なき正義は無力だが、力ありすぎる正義もまた毒か」

 秀親は、左大臣の座布団を蹴り飛ばした。

「家光様。……本日をもち、左大臣を辞し、隠居いたします。……これからは、お好きになされるがよい」

 秀親は家光に背を向け、広間を出て行こうとした。

 その背中に、家光が声をかけた。

「……秀親! 待て!」

 秀親が足を止める。家光は、震える声で言った。

「……大儀であった。……そなたが壁でいてくれたから、余は強くなれた」

 秀親は振り返らず、ただ一言、

「……フン。まだまだ甘い」

 とだけ言い残し、去っていった。

***

 その夜、西の丸。

 秀親は、引っ越しの荷造りを終えた部屋で、一人酒を飲んでいた。

 そこへ、忠親が現れた。

「……勝ち誇りに来たか」

「いいえ。……最後に、親子として酒を酌み交わしたく」

 忠親は父の向かいに座り、杯を受けた。

 秀親は、息子の顔をしげしげと眺めた。

「……見事な手際だった。大奥まで使うとはな」

「……父上なら、力で押し切ることもできたはず。なぜ、引かれたのですか」

 秀親はニヤリと笑った。

「馬鹿め。……お前たちが私を『言葉』と『政治』で打ち負かしたからだ。……刀を抜かずに私を葬った。その手腕があれば、もう徳川は安泰だ」

 秀親の目から、長年纏っていた殺気が消え、ただの老人の穏やかな光が宿っていた。

「……忠親。これからは、お前が『壁』になる番だ。……孤独ぞ、頂(いただき)は」

「……覚悟の上です」

 翌日、秀親は江戸を去り、伏見へと隠居した。

 江戸城には、家光と忠親、そして若き「六人衆」による、新たな政治の季節が到来していた。

 ここに、第3部・第4部を貫いた「左大臣支配」は終焉を迎えた。

 物語は、全盛期を迎えた家光政権と、その光の裏で進行する新たな闇を描く、第5部へと突入する

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