第40話 春日局の遺言
寛永二十年(一六四三年)。
島原の乱から五年が過ぎたが、江戸城の空気は依然として張り詰めていた。
西の丸には「影の将軍」こと左大臣・松平秀親が居座り、すべての政策に拒否権を発動していたからである。
この日も、白書院で衝突が起きていた。
将軍・家光と忠親は、松平信綱や堀田正盛ら、若く有能な側近たちを老中に抜擢しようとしたが、秀親がそれを却下したのである。
「……時期尚早だ。信綱は知恵が回りすぎるし、堀田は若すぎる。……私の目の黒いうちは、人事権は渡さん」
秀親の独裁に、家光は唇を噛み締めた。
その時、奥から急報が届いた。
「春日局様が、倒れられました!」
***
大奥、春日局の居室。
家光の乳母として、また大奥の支配者として権勢を振るった春日局も、病には勝てず、死の床に伏していた。
駆けつけた家光の手を握り、春日局は浅い息で呟いた。
「上様……。どうか、お嘆きめさるな。……私は、十分生きました」
家光が涙を流して退室した後、春日局はもう一人、重要な人物を枕元に呼んでいた。
松平忠親である。
「……伏見殿(忠親)。……近くへ」
忠親が膝を進めると、春日局は鋭い眼光で彼を見据えた。死の間際とは思えぬ気迫であった。
「……左様(秀親)の壁は、厚うございますか」
「……はい。あの鉄壁、いまだ崩せずにおります」
春日局は、苦しげに咳き込みながらも、不敵に笑った。
「左様も、不器用な男よ。……あえて憎まれ役となり、上様と貴方様を育てようとしている。……だが、壁も長くありすぎれば、ただの枷(かせ)になります」
春日局は、枕元にあった小さな文箱を忠親に差し出した。
「これを……お使いなさい」
「これは?」
「大奥の『裏帳簿』です。……全国の大名の妻や娘たちの、秘密や弱みが記してあります。……表の政(まつりごと)は左様が握っていますが、奥の女たちの口までは塞げません」
忠親は驚愕した。それは、秀親の監視網すら及ばぬ、大奥独自の情報ネットワークの鍵であった。
「女を使い、大名たちの本音を操りなさい。……そして、外堀から左様を埋めておしまいなさい」
「……春日様。よろしいのですか」
「構いません。……あの方は『法』の鬼ですが、私は『情』の鬼。……最後に勝つのは、人の情けを知る貴方です」
春日局は、最後に忠親の手を強く握った。
「上様を……家光様を、頼みます。あの子にはもう、貴方しかいないのです」
九月十四日。春日局、死去。享年六十五。
***
春日局の葬儀が終わり、秋風が吹く頃。
忠親は、春日局から託された「鍵」を使い、水面下で動き始めていた。
大奥の茶会や密談を通じ、有力大名の妻たちに働きかけ、秀親の強権政治に対する不満を吸い上げると同時に、「次代は家光と忠親である」という空気を醸成していったのである。
そしてある夜、忠親は家光と二人、月を見上げていた。
「家光様。……春日様も逝かれました。もう、誰も私たちを守ってはくれません」
「……ああ。分かっている」
家光の目から、かつての甘えは消えていた。
「余は決めたぞ、忠親。……左大臣(秀親)を更迭する。父上の遺命だろうと、官位が上だろうと関係ない。……余が将軍だ。余の力で、あの巨大な壁を乗り越える」
忠親は深く頷いた。
「その時が来ました。……次の評定で、父上に引導を渡しましょう。私が、その切っ先となります」
母代わりを失った悲しみは、若き双璧を真の大人へと変えた。
春日局の遺産を武器に、ついに秀親との最終決戦――「左大臣解任クーデター」が幕を開ける。
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