第38話 原城落城、神の死

寛永十五年(一六三八年)二月二十八日。

 未明の空を、一発の狼煙(のろし)が切り裂いた。

 総大将・松平忠親が振り下ろした軍配を合図に、原城を包囲していた十二万五千の幕府軍が一斉に咆哮を上げ、城壁へと殺到した。

 「一人残らず斬れ! 女子供とて容赦は無用!」

 もはや、それは「合戦」ではなかった。

 一ヶ月に及ぶ兵糧攻めで痩せ細り、立つことすらままならぬ一揆勢に対し、幕府の精鋭たちが鉄砲と槍で襲いかかる。

 悲鳴と怒号、そして祈りの言葉が交錯し、原城は阿鼻叫喚の地獄と化した。

 忠親は、本陣の床幾から動かず、その光景を無表情で見つめていた。

 隣に控える松平信綱が、あまりの惨状に顔を背ける。

「……むごい。これが左大臣殿(秀親)の望まれた『膿出し』ですか」

「……そうだ。よく目に焼き付けておけ、信綱」

 忠親は瞬きもせず答えた。

「この地獄の上に、徳川の泰平は築かれるのだ」

***

 正午過ぎ。

 幕府軍は本丸へ到達。建物という建物に火が放たれた。

 炎の向こう、十字架が掲げられた最奥の櫓(やぐら)に、一人の少年が立っていた。

 一揆の総大将、天草四郎時貞である。

 彼は燃え盛る城を見下ろし、狂気とも崇高ともつかぬ笑みを浮かべていた。

 そこへ、返り血で鎧を赤く染めた忠親が、馬を乗り入れて現れた。総大将自ら、トドメを刺しに来たのだ。

「……貴様が四郎か」

 忠親が低い声で問うと、四郎は静かに答えた。

「そうだ。……伏見の悪鬼よ。我らの肉体は滅ぼせても、魂は滅びぬ。デウスの御許(みもと)で、我らは永遠に生きる」

「……世迷言を」

 忠親は刀を抜き、切っ先を四郎に向けた。

「あの世などない。あるのは、徳川の法が支配するこの現世だけだ。……貴様は神を騙り、民を惑わせ、死地へと追いやった。その罪、万死に値する」

「罪? 民を飢えさせたのは幕府ではないか!」

「黙れッ!!」

 忠親が一喝すると、周囲の空気が震えた。

「飢えようと、苦しかろうと、生きねばならぬのだ! 秩序の中で、泥を啜ってでも生きる……それが人の営みだ! 貴様は死を救済と説き、彼らから生きる機会を奪った!」

 忠親は馬を降り、四郎へ歩み寄った。

「貴様の『神』は、ここにはいない。いるのは、徳川の『鬼』だけだ」

 一閃。

 忠親の豪刀が、天草四郎の首を跳ね飛ばした。

 少年の首が宙を舞い、炎の中へ落ちていく。その瞬間、城内に響いていた祈りの歌が、プツリと途絶えた。

 「……終わった」

 忠親は、血の付いた刀を振るい、納刀した。

 三万七千人の死。そのすべての重圧が、忠親の肩にのしかかった。だが彼は倒れなかった。父・秀親が待つ「修羅の頂」へ登るために、彼はここで立ち止まるわけにはいかなかった。

***

 翌日。

 原城の沖合に浮かぶ船の上で、忠親は一揆勢の首実検を行っていた。

 海岸には、数万の遺体が埋められようとしていた。

 江戸への早馬に託す報告書を、忠親は自らしたためた。

 『島原・天草の乱、鎮圧。一揆勢、三万七千名。……生存者、なし』

 書き終えた忠親の手は、震えていなかった。

 彼は海風に吹かれながら、遥か東の空を睨みつけた。

 (父上。……見事、地獄を見てまいりました。……貴方が私に何をお望みだったのか、今なら分かります)

 優しかった「伏見の若殿」は、もういない。

 そこにいるのは、天下の汚れ役を一身に背負い、誰も寄せ付けぬ冷徹さを纏った、真の**「徳川の守護者」**であった。

 島原の乱は終結した。

 しかし、その代償として、日本は「鎖国」という完全に閉ざされた世界へと突き進んでいくことになる

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