第37話 兵糧攻め
寛永十五年(一六三八年)一月。
原城を包囲する幕府軍の陣営に、金色の馬印が翻った。
総大将・松平忠親、ならびに知恵伊豆・松平信綱ら増援部隊の到着である。
総勢十二万五千。黒田、鍋島、細川といった西国の勇猛な大名たちは、新総大将の号令を待ちわびていた。
「伏見殿(忠親)! 直ちに総攻撃の命を! 板倉殿の仇を討ち、一刻も早く城を落とさねば武士の恥辱でござる!」
黒田忠之らが鼻息荒く詰め寄るが、床幾(しょうぎ)に座る忠親は、原城をじっと見上げたまま動かなかった。
冬の寒空の下、要塞と化した原城からは、異様な熱気と祈りの歌が聞こえてくる。
「……攻めるな」
忠親が低く呟いた。
「は? 今なんと?」
「全軍、攻撃を中止せよ」
忠親は立ち上がり、並み居る歴戦の大名たちを見回した。その目は、かつての理知的な若殿のそれではなく、感情を凍結させた「能面」のようであった。
「城の周りに柵を築き、海には船を並べよ。蟻一匹逃さぬよう、完全に封鎖するのだ。……そして、枯れるのを待つ」
「ひょ、兵糧攻めでございますか!? 十二万の大軍が百姓相手に、そのような卑怯な真似を!」
大名たちの不満が爆発するが、忠親は冷徹に言い放った。
「黙れ。……これは『戦(いくさ)』ではない。『処刑』だ」
忠親の声が、寒風よりも冷たく響いた。
「力攻めを行えば、味方にも多くの死傷者が出る。……父・左大臣(秀親)は言った。『膿を出し切れ』と。……奴らが飢え、共食いをし、生きる気力を失うまで追い詰める。それが、法を犯した者への徳川の罰だ」
忠親の凄まじい気迫に、黒田らも言葉を失い、平伏した。
ここより、静寂という名の地獄が始まった。
***
二月。
包囲は一ヶ月に及んだ。
城内への補給は完全に断たれ、忠親の読み通り、一揆勢の食糧は底をつき始めていた。
忠親はさらに、矢文(やぶみ)を使った心理戦を仕掛けた。
『降伏する者は助ける。だが、籠城を続けるなら、女子供とて容赦はせぬ』
だが、城内の結束は固かった。総大将・天草四郎が「この苦しみの先にパライソ(天国)がある」と説き、餓死寸前の信徒たちを鼓舞していたのだ。
ある夜、松平信綱が忠親の陣を訪れた。
「……忠親様。城内から、決死の使いが参りました。四郎からの矢文です」
忠親が文を開くと、そこには美しい筆致でこう書かれていた。
『現世のパンは尽きるとも、魂の糧は尽きず。我らは神の国へ行くのみ』
忠親は、無表情のまま文を蝋燭の火で焼いた。
「……神の国、か。ならば送ってやろう」
忠親は信綱に命じた。
「解剖した一揆勢の胃袋を調べよ」
「は……。調べたところ、米粒はなく、麦や海藻、木の根ばかりでございました」
「……時は満ちた」
忠親は立ち上がり、軍配を握りしめた。
「奴らは限界だ。……明日、総攻撃を仕掛ける。これは戦ではない。弱り切った獲物の首を刎ねる、最後の仕上げだ」
***
出陣の前夜、忠親は一人、江戸の方角を見つめた。
(父上。……私は心を殺しました。飢えた民を、祈る女子供を、これから撫で斬りにします。……これで、貴方の望む『鬼』になれましたか)
忠親の頬を、一筋の涙が伝った。だが、その涙を拭うことなく、彼は鬼の面(メンポ)を装着した。
人間・松平忠親は、今夜ここで死んだ。
明朝、原城は血の海となる。
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