第36話 一揆勢、原城へ
寛永十四年(一六三七年)十一月。
島原と天草で蜂起した一揆勢は、若き総大将・天草四郎時貞のもとで合流。その数は三万七千人に達していた。
彼らは、廃城となっていた要害・**原城(はらじょう)**に立て籠もった。海に面した断崖絶壁の城は、一揆勢によって瞬く間に難攻不落の要塞へと修復された。
江戸城・白書院。
報告を受けた将軍・家光は、焦りを募らせていた。
「三万七千だと……! たかが百姓一揆ではないか。なぜ現地の諸大名は鎮圧できぬのだ!」
上座の左大臣・松平秀親が、地図を見下ろしながら静かに言った。
「百姓ではありません。……その中核は、関ヶ原や大坂の陣を生き延びた『浪人』たち。そして彼らを束ねるのは、『死ねば天国(パライソ)へ行ける』という狂信です。……死を恐れぬ兵ほど、厄介なものはありません」
秀親は、幕府が派遣した最初の討伐軍大将・**板倉重昌(いたくらしげまさ)**の名を指差した。
「板倉殿では荷が重い。……彼は真面目だが、戦を知らぬ官僚だ。必ず失敗します」
家光は秀親を睨んだ。
「ならば、なぜ彼を行かせた! 最初から忠親を行かせればよかったではないか!」
「……『負け戦』を見せるためです」
秀親の言葉に、傍らに控えていた忠親が息を呑んだ。
「平和に慣れた幕府の兵は、戦の恐ろしさを忘れている。……一度、痛い目を見なければ、本気にはなりませぬ。板倉殿には気の毒ですが、捨て石になっていただきます」
***
九州・原城。
秀親の予言通り、戦況は泥沼化していた。
板倉重昌率いる幕府軍は、原城の堅固な守りと、一揆勢の決死の鉄砲射撃に阻まれ、死傷者の山を築いていた。
一月一日。
江戸から「増援として松平信綱(知恵伊豆)を派遣する」という知らせを受けた板倉は、功を焦った。
「増援が来ては、武士の面目が立たぬ!」
彼は無謀な総攻撃を敢行。先頭に立って突撃したが、一揆勢の凶弾に倒れ、討ち死にした。
総大将の戦死。
徳川幕府始まって以来の大失態であった。
***
江戸城・西の丸。
板倉戦死の急報が届くと、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
しかし、秀親だけは、まるで待っていたかのように静かであった。
「……板倉殿、死にましたか。……これで、幕府の将兵も目が覚めたでしょう」
秀親は、蒼白な顔で立ち尽くす忠親を振り返った。
「忠親。……舞台は整った」
秀親は、将軍・家光の面前で、忠親に最高指揮権を与える**『節刀(せっとう)』**を授けた。
「板倉の弔い合戦ではない。……これは『殲滅戦』だ。忠親、お前が総大将となり、西国の全大名を率いて原城へ行け」
忠親は、震える手で節刀を受け取った。その重みは、板倉の命と、これから殺すであろう三万七千人の命の重さであった。
「……父上。降伏は許されぬのですか。女子供もいるのです」
「許さぬ」
秀親は、鬼の形相で断言した。
「神を理由に法を犯した者を許せば、天下の法が死ぬ。……女子供であろうと、一匹残らず斬れ。それが、将軍の『影』たるお前の仕事だ」
家光は、口を挟めなかった。板倉の死によって、もはや「慈悲」などと言っていられる状況ではなくなっていたのだ。秀親の描いた最悪のシナリオ通りに、事態は進んでいた。
***
出陣の朝。
忠親は、伏見100万石の精鋭部隊に加え、紀州・水戸・九州諸大名の連合軍、総勢十二万の大軍を率いて江戸を発った。
見送りに立った秀親は、馬上の息子に声をかけた。
「……忠親。帰ってきた時、お前の目がまだ今のままなら、私はお前を廃嫡する」
「……ご安心を。帰る頃には、父上すら震え上がる『鬼』になって戻りましょう」
忠親は父を一瞥もせず、西へと馬を走らせた。
その背中には、かつてない悲壮な決意が漂っていた。
若き双璧・松平忠親。
彼が生涯で唯一、自らの手を血で染める「地獄」への旅路が始まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます