第34話 寛永通宝、再び

寛永十三年(一六三六年)。

 参勤交代の制度化により、街道は人と物の往来で溢れかえり、江戸は空前の賑わいを見せていた。しかし、その繁栄の足元には大きな落とし穴があった。

 「銭(ぜに)」の乱れである。

 市場には、古くからの明銭(永楽通宝など)や、私的に鋳造された粗悪な「びた銭」が混在し、商いの現場では銭の選別を巡る争いが絶えなかった。

 江戸城・西の丸。

 左大臣・松平秀親は、卓上に山積みされた種々雑多な銭を、汚らわしそうに見下ろしていた。

「……汚い銭だ。大名や商人が勝手に銭を作り、国の値を決めるなど言語道断。……銭は、幕府という『心臓』から送り出される、清らかな血液でなければならぬ」

 秀親は、老中たちに号令を発した。

「これより、幕府直轄の銭座(ぜにざ)を江戸・芝や近江・坂本に設置する。そこで鋳造する**『新寛永通宝』**のみを、天下の正貨とする」

 さらに秀親は、非情な命令を付け加えた。

「全国の銅山を幕府が接収し、銅の流通を統制せよ。……さらに、市中に出回る古銭はすべて回収し、新銭と引き換えさせよ。ただし、その**『相場(そうば)』**は、古銭二枚に対し新銭一枚とする」

***

 この強引な「通貨統一令」と、幕府に極端に有利な「引換相場」は、瞬く間に市場を大混乱に陥れた。

 「半分に目減りするなら、銭など替えたくない」と、商人たちは銭を隠して売り惜しみをし、米や味噌の値段は天井知らずに跳ね上がった。

 江戸の市中では、銭を持っていながら物が買えない民たちの不満が、爆発寸前となっていた。

 将軍・家光は、お忍びで城下を視察し、その惨状を目の当たりにした。

「……余の民が、幕府の銭のせいで飢えている。……秀親め、やりすぎだ!」

 家光は、伏見から参府していた忠親と共に、西の丸へ乗り込んだ。

「左府(秀親)! 直ちに引換の相場を改めよ! 民が干上がってしまう!」

「父上! 天下の金回りを握るのは結構だが、血を止めすぎては身体(国)が腐ります!」

 しかし、秀親は筆を止めず、冷徹に応じた。

「……痛みなくして、改革は成らぬ。今ここで手を緩めれば、再び粗悪な銭が蔓延る。……民が多少苦しもうと、百年後の徳川のために、今の膿を出し切るのだ」

 秀親の理屈は正論であったが、そこには「人の温もり」が欠けていた。

***

 「……父上は、正しすぎて間違っている」

 忠親は、西の丸を出た後、家光に提案した。

「家光様。左府様の令は覆せませんが、民を救う抜け道はあります。……私に、伏見の蓄えを使わせてください」

 忠親は、父・秀親には無断で、伏見100万石の豊富な資金を投入。江戸市中の両替商に対し、裏から資金援助を行った。

 「伏見様のお墨付きだ。古銭は等分(一対一)に近い相場で買い取ってやれ」

 さらに、商人たちに伏見米を適正な相場で放出させ、物流の滞りを強引にこじ開けたのである。

 「伏見様のお救いだ!」

 民たちは忠親の施策に歓喜した。これにより、市場の混乱は鎮静化し、新寛永通宝も次第に信用を得て、天下に行き渡り始めた。

***

 数ヶ月後。

 通貨統一は成し遂げられた。

 秀親は、結果報告に来た忠親に対し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「……余計な真似を。伏見の金蔵を空にしてまで、民に媚びを売ったか」

「媚びではございません。……父上が作った『骨』に、私が『肉』をつけたのです。骨だけでは人は生きられませぬ」

 忠親が真っ直ぐに見返すと、秀親はふんと顔を背けた。

「……まあよい。新銭は行き渡った。……だが忠親、その甘さがいずれ命取りになるぞ」

 秀親は内心、息子が独自の判断で自分の「暴政」を補完したことに、かすかな成長を感じていた。

 経済を握り、法を整え、もはや国内に敵はいなくなった。

 だが、秀親の目はすでに、海の向こう――長崎の出島と、そこに迫る「切支丹(きりしたん)」の影に向けられていた。

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